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これってどんな種?

清められた愛を感じるという種 年間第6主日(マルコ1・40〜45)

 『桜色の風が吹く』という映画があります。この映画は、8歳で視力を失い、18歳で聴力も失いながらも世界で初めてもう聾者の大学教授となった東京大学先端科学技術センター教授、福島智さんの生い立ちを描いた実話です。映画の中で彼は、病気を治すためにいろいろな治療を行い、時には、自分の人生を呪うような気持ちになりながらも、最後は、「僕が、こうなったのは、僕でしか乗り越えることができないことがあるからではないか」と気づくのです。この気づきから、彼は大きく変わっていきます。もちろん、この映画には、イエス様のことは出て来ませんが、彼が気づかない中で、イエス様の介入があったというのは、間違いないと思うのです。イエス様は、私たちの苦しみ、悩みの中にもそれらを通して寄り添い、癒してくださるお方なのです。

 きょうのみことばは、一人の重い皮膚病を患った人がイエス様によって清くされる場面です。イエス様は、カファルナウムで悪霊に苦しめられた人、病気に罹った人を癒やされ、それだけでなく神の福音を宣べ伝えられました。イエス様は、カファルナウムだけに留まられるのではなく、ガリラヤ中を巡り歩かれ、方々の会堂で福音を宣べ伝えられ、悪霊を追い出されました。
 このような中で、イエス様のことを聞いた一人の重い皮膚病を患った人がイエス様のもとに来てひざまずき、「お望みなら、わたしを清くすることがおできになります」と願います。彼の「重い皮膚病」というのは、「ハンセン病」と言われる病で当時は、不治の病と言われ、非常に恐れられ、社会の中から追放されていました。また、彼らは町の中に入ったり、健常者に近づいたりするときには「わたしは汚れた者です。近寄らないでください」と大きな声で叫ばなければならなかったのです。

 人々は、恐れて逃げ出し、軽蔑の眼差しをむけ、家の戸口や窓を閉めたことでしょう。重い皮膚病に罹った人は、何も悪いことをしたわけではなく、病気になったというだけで、「汚れた者」と呼ばれ、周りの人たちから蔑まれていたのです。そのような彼は、イエス様のもとに行く途中、「わたしは汚れた者です」と言わなければならないという大変な屈辱にあいながら、それでも「清くなりたい」という強い思いで勇気を振り絞って近づいたのでした。

 彼は、そのような辛い思いをしながらイエス様の前にひざまずき、「お望みなら、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのです。イエス様は、彼がこれまで受けてきた、苦しみや悲しみを憐れに思われます。みことばの中でイエス様が【憐れ】というのは、「はらわたが激しく動かされる様子」と言われていますが、それと同じように、「怒り」とも言われています。この「怒り」というのは、彼に対してではなく、彼が受けてきたことへのさまざまなことへの怒り、憤りという意味も含まれているようです。

 みことばには、「イエスは憐れに思い、手を差し伸べて、その人に触り」とあります。イエス様は、ひざまずいて頭を垂れ、必死にご自分に願っている彼に対して、身をかがめられ、抱擁され、一緒になって彼の苦しみに寄り添われたことでしょう。イエス様は、「わたしは望む、清くなれ」と言われます。このイエス様のお答えは、彼が言った「お望みなら」という言葉に対して「わたしは望む」と答えられ、また同じように、「わたしを清くすることがおできになります」という言葉に「清くなれ」と答えられています。イエス様は、彼の言葉に対して丁寧に聴かれ、彼の痛いほどの望みに応えられたのです。イエス様は、私たちが自分の力ではどうすることもできない痛み、苦しみや不安、または、大きな壁に対して、寄り添われ、耳を傾けられ、癒してくださいます。

 彼は、イエス様の「清くなれ」という言葉によってたちまち、重い皮膚病が治り、清くなります。イエス様は、彼をきびしく戒め、すぐに立ち去らせ、「誰にも話さないように注意しなさい。……モーセが命じた物をささげなさい」と言われます。イエス様は、彼が清くなったことを人々に言いふらすことをご存知だったのです。それで、「誰にも話さないように【注意】しなさい」と言われたのです。しかし、それは長い間苦しんだ彼にとっては無理な話です。それだけ、大きな喜びが彼を包んだのでしょう。

 イエス様が彼に対して口止めをしたのは、人々がイエス様の奇跡だけに注目し、おん父の「アガペの愛」に気づくことができないということがあったからでした。みことばには、「言いふらし」とありますから、その中には、「私はイエス様が『清くなれ』と言われたので治った」という自慢があったのかもしれません。イエス様は、目先の癒しのために奇跡を行ったのではなく、その奥にあるおん父の業、おん父に向かう心に気づかせたかったのです。私たちは、苦しみから解放されたことへの喜びを味わうだけではなく、おん父へ向き直ることができたことへの感謝とおん父への賛美を味わうことができたらいいですね。

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