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これってどんな種?

愛の掟という種 年間第7主日(ルカ6・27〜38)

 私たちは、自分と敵対する人を愛したり自分のものを人から奪われそうになるとそれを守ろうとしたりします。一般の社会の流れは、自分と敵対している人には、とことん追い詰め、無視しまし、奪われたら奪い返というのが普通の考えです。

 きょうのミサの『集会祈願』の中に「主イエスは敵対する人、自分を裏切る人をも愛し、まことの愛に生きる者の姿を示してくださいました。ここに集うわたしたちが、キリストの心に少しでも近づくことができますように」とあります。このことは、自分の力だけではできないことですが、三位一体の主のお力があればできるのかもしれません。この祈りのように、【キリストの心に少しでも近づくことができるよう】にと祈ることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様のもとに集まってきた群衆に対して「敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい」「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」「裁いてはならない。そうすればあなた方も裁かれない」と伝えている場面です。これらの教えは、イエス様の所に集まって来た人々の心にどのように響いたのでしょうか。

 彼らは、イエス様の教えを聞き、病気に苦しむ人、汚れた霊に悩まされている人たちでした。また、ユダヤ人たちだけではなくティルスとシドンの海岸地方というユダヤ人たちから蔑まれている人たちでした。彼らは、異邦人というだけで、また同邦であっても罪人して、ユダヤ人から散々苦しめられ、時には、人ではないような扱いをされたことでしょう。そんな人たちに対してイエス様は、「敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい」「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」「裁いてはならない。そうすればあなた方も裁かれない」と語りかけておられるのです。

 『クレシェンド 音楽の架け橋』という映画が上映されています。これは、イスラエル人とパレスチナ人の青年が一緒になってオーケストラを結成し、コンサートに向けて互いの対立を乗り越えていく映画です。初めは、憎しみ、敵意を抱き、罵り合っていたのですが、徐々に分り合い、友情が芽生えていく様子を描いていました。この映画を観て敵に対しての憎しみ、敵意を消すというのは、まさに奇跡ではないかと思いました。

 さて、イエス様は、彼らに対して「わたしは耳を傾けているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい」と言われます。イエス様は、彼らに一番必要なものをご存知だったのではないでしょうか。彼らは、イエス様が「幸い」と「不幸」な人のことを話された後、【耳を傾けて】これからどのような話が聞けるのかと思っていたことでしょう。病気や汚れた霊から癒やされた人たち、いつもユダヤ人たちから蔑まれている人たちは、心も体もボロボロの状態でした。そのような彼らの心を癒すのは、「敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい」ということだったのではないでしょうか。

 彼らは、イエス様から癒やされてもそれぞれの場所に帰ってしまうと、また、病気になったり、汚れた霊から悩まされたりするかもしれません。彼らにとって、根本的に大切なことは、「敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい」から続く、「呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」という教えだったのです。イエス様は、私たち一人ひとりに対しても同じことを言われておられます。私たちは、生きていく中で病気や怪我、喪失感、人間関係、周りからの嫌がらせなどの苦しみや悩みがあることでしょう。そのように苦しんでいる時だからこそ周りに目を向けることが大切なのかもしれません。「愛すること、善を行うこと、祝福し、祈ること」というのは、全て私たちの周りに対して目を向けなければできません。イエス様は、私たちが生きていく中で本当に大切なことを教えてくださり、ご自身もそのように生きられたお方なのです。

 イエス様は、「裁いてはならない」「人を罪に定めてはならない」「赦しなさい」「与えなさい」と言われます。私たちは前の二つの言葉を聞くと耳が痛いかもしれません。私たちは時々「あの人がこのようなことをしなければ、もっとうまくいったのに」と相手を批判してしまうことがあります。または、「あなたが悪いのでしょう」と言ってしまったり、心で思ったりしてしまうものです。さらに「自分は無力だから何もできない。自分が失敗しなければこのようなことが起こらなかったのに」と自分を責めてしまうこともあるでしょう。このように、私たちは人や自分自身を裁いたり、人を罪に定めたりする傾きがあるのではないでしょうか。イエス様はそのような私たちの弱さをご存知だったのです。

 また、後の二つは、自分の手を開く、心を開くということを教えてくださっているのではないでしょうか。「与えること」「赦すこと」は自分自身の心を開かないとできません。イエス様は、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深いものとなりなさい」と言われます。この言葉を味わいながら一日を丁寧に歩み続けることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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