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カトリック入門

「カトリック入門」 第65回 薩摩の殉教者【動画で学ぶ】

<レオ税所七右衛門>
*薩摩の殉教者として、レオ税所七右衛門が知られています。
 ドミニコ会のオルファネス神父は、彼のことを「外観はやせ型で背が高く、穏やかで口数が少なく、その行動は慎み深い武士」と描写しています。
*彼は強い意志を持ち、洗礼から殉教までが3か月と26日で、凝縮した信仰の中でイエスの生き方を受け入れた人でした。
*彼について、「善に向かって突進するレオ(ライオン)」「勇気あるレオ」「神の慈悲がその心に触れた人」とも記されています。

1)生い立ち
*彼は1570年頃、七代目の税所伊賀守の次男として都城で生まれました。自分の高い武士で、彼が24歳の時、領主のほんごう北郷加賀守三久が移封となって領主とともに平佐(現在の薩摩川内)に移りました。

2)ドミニコ会の宣教師たち
*1602年、ドミニコ会の司祭たちが薩摩の甑島(こしきじま)にやってきました。宣教活動を開始しますが、非常に不便だったので薩摩の京泊(きょうどまり)に移動し、1606年6月2日、教会が落成しました。税所は薩摩の平佐で、友人のパウロ吉右衛門からキリスト教のことを聞き、1608年3月から5月頃、京泊教会を訪れます。そのころ、薩摩の支配者島津氏をはじめ、領主の北郷(ほんごう)も武士階級が洗礼を受けることを禁止していました。そのため、宣教師たちも武士たちに洗礼を授けることについてはためらいがありました。
*京泊教会には三人の司祭がいて、そのうちのモラレス神父の記録によれば、「殿様は武士がキリシタンになるのを喜ばない。キリシタンになったら殺されるかもしれない。だから洗礼を受けることについて慎重に考えてください」と税所七右衛門にも話しました。
*しかし、彼は「今まで宣教師の話を伺って、人間に救いがあるということ、キリストによって救いが得られることを理解しました。たとえ命を失っても救いから離れません」と答えています。こうして1608年7月22日(マグダラの聖マリアの祝日)に洗礼を受けました。宣教師も領主から咎められることを承知の上で洗礼を授けています。

3)誘惑
*受洗後、仲間たちは「一時的に信仰を捨てるように」、「心の中で従えばいい」、「殿様に従わないのは武士に反する」などとレオに語り、信仰を捨てさせようとします。
*レオは「永遠の命を与えてくださる神様が救いをくださるから、この命を失うことはむしろ私にとって利益です。私は洗礼を受けて、神に祈りを委ねる決心をしました。けれども仲間たちが、<表面上だけでも信仰を捨てるように>と勧めます。魂に反することでないなら殿様に従いますが、信仰によって救いの道を見つけた今は、財産や命を奪われ、あるいは追放されても、信仰に背くことはできません」と明言しています。
*家臣としての務めを忠実に果たす一方、信仰の問題や魂の救いについては決して譲ろうとはしませんでした。

4)殉教
*家庭では妻と息子二人の四人家族。レオ税所が洗礼を受けてから三か月後に次男の敦吉(あつよし)7歳も洗礼を受け、ミカエルと名乗りました。また長男の敦元(あつもと)17歳には、「お前はすでに理解力がある。もし私の所についてきたいなら、お前の考えで来ることができる」と話しています。
*殉教を前にして、自分の生きた姿を子どもに示しています。また殉教の前日、(遺言のように)妻に対しては「私の希望はお前が、キリシタンになって教会に奉仕することだ」と。
*1608年11月17日、主に倣って十字架に架けられることを望みましたが、かなえられず、屋敷前の十字路で斬首されました。38歳。

5)その後
*彼の殉教後、遺体は京泊教会の墓地に埋葬されました。夫がキリシタンとして命をささげたことへの妻の理解が見られます。この殉教を通して、夫婦間の信仰に関する理解や信頼関係、また子どもたちに対しては、「お父さんの生き方はこうなんだ」と自信をもって示す模範、「自分の意志で選ぶように」と言った子どもへの信頼があります。

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