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最初の宣教師たち

桑島カツさんの家族たち――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(20)

 「はまさん」の家族は、まさしく私たちと同じ「三丁目」、大森区の第三番目の区域に住んでいた。その簡素な家は、私たちの家から二百メートルほどの所にあった。翌日、桑島さんは本当に訪ねて来た。私たちは彼女を家の中に迎えた。彼女は私たちには理解できない、しかし明らかに礼儀正しさを表している言葉を述べながら、深々とお辞儀をした。私たちは彼女に辞書を見せて、自分たちが日本語の初心者であること、もし日本語で何か話したいのなら、ゆっくりと、そしてできるだけ簡単で分かりやすい言葉で話してほしいとお願いした。彼女はすぐに理解し、私たちにも分かるように話してくれた。

 こうして私たちは、桑島カツさんを知るようになった。彼女は一見すると四十五歳以上に見えた。日本人の女性らしく背はあまり高くなく、素朴だが、その容貌には洗練された上品さがうかがえた。目の表情は生き生きとしていて、心からのほほ笑みを常にたたえていた。この日は儀礼的な訪問だったので、彼女は着物を着て薄化粧をしていた。しかし、カツさんを最も魅力的にしていたのは、その明るい知性であり、並々ならぬ聡明さであった。その後、娘の絹と弟の啓吉にも会うことができた。この弟は私たちの家に入ると、まるで大人のように礼儀正しく挨拶し、じっと私たちを見つめていた。彼はとても賢こそうに見えた。いつも私たちを見つめ、自分の中で何かを思いめぐらしているように見えたが、ずっと沈黙を守っていた。私たちは彼が、二人の宣教師を実際に目にして、何か新しい発見をしたような、強い印象を受けたのであろうという感じを持った。彼はきちんと学生服を着ていた。

 その後の啓吉は、最初の日に私たちと交わした毎日の「沈黙の約束」を、一度たりとも破ることがなかった。彼は当時、まだカトリック信徒ではなかったが、間もなく私たちの元で公教要理を学び、後にイエズス会の大学に進学した。そして聖パウロ修道会の会員となって司祭に叙階され、日本における私たちの使徒職の最初の「実り」となった。現在、彼は五十歳を少し越えたくらいだが、聖パウロ修道会の日本管区長、および東京の郊外にある八王子の聖パウロ学園の校長である。彼は背が高く、褐色の肌をしており、文学的な素養が豊かで、性格は紳士的、どちらかといえば寡黙で謹厳な人物である。

 カツさんと啓ちゃん(啓吉)との出会いの後、互いの親しさと理解は自然と深まっていった。私たちの語学の勉強は進み、ピアチェンツァ神父はフランス語をいくらか知っている日本語の先生を送ってくれた。彼は木曜日と日曜日以外、毎日大森に通って私たちに日本語を教えてくれた。私たちは小学生の教科書から始めて次第に高学年に進み、中学の教科書まで進んだ。私はマルチェリーノ神父が並み外れた理解力を持っていて、私よりはるかに進歩したのを覚えている。私も粘り強く学習に取り組み、なんとか切り抜けていた。

 語学の勉強が進むにつれ、私たちがますます日本語を高く評価していることに気づかされた。ちょうど画家がその絵を愛し、芸術家がインスピレーションと才能による作品を愛するように、私たちもいつしか漢字を愛するようになっていた。他の東洋の言語と同じく、日本語も表現しようとする対象、あるいは概念を示すために、多少図形化した「しるし」を用いる。ヨーロッパの場合、文字それ自体には何の意味もない。何らかの意味も決まった考えもないアルファベットより、漢字は人間にとって、とても「自然」な表現方法だと言えるだろう。「東洋の言葉は難しくて克服しにくい」と言われる原因は、一種の先入観から生じているものと私には思われる。

 しかしこう言ったからといって、日本語の習得が決して簡単だったわけではない。私たちは毎日苦労しながら少しずつ進んでいたが、それは「継続は進歩なり」を実感するものであった。私たちは日本語への書き換えによくローマ字を使ったが、習得への歩みは困難で長かった。ある日のこと、マルチェリーノ神父の火山のように「燃えさかる知性」が私たちの勉強を容易にするためのある「戦術」を考え出した。

 先に述べたように啓ちゃんは毎日私たちに会いに来ていて、お母さんのカツさんも時々、叔母の家事の手伝いに来ていた。ある日、マルチェリーノ神父は母と息子を呼んで、二人にカトリックの勉強をしてはどうかと勧めた。二人は喜んでその提案を受け入れた。それは、すでにカトリック信徒だった叔母の「はまさん」が、彼らの心をそのように準備してくれていたからである。

 マルチェリーノ神父が母親の公教要理を担当し、ロレンツォ神父は息子の方を引き受けた。二人には日本語の要理の本を渡し、私たちはそれとローマ字の要理本、この二つの本を使用した。当然ではあるが、手にはいつも辞書を持ちながら。

 勉強方法は次のようにして行われた。母と息子は要理本の文章を非常にゆっくりした速さで読み、私たちは知らない言葉や特に難解な言葉に出合うたびにいったん止まって、文章をたどるのである。最初のうちは、一回の講義でたった二~三行しか進めなかったが、後には、一日一ページも進むことができるようになった。マルチェリーノ神父の考え出したこの方法は、時間の経過とともに大きな効果を上げ始めた。私たちはより気軽に日本語になじむことができるようになり、これによって二人の生徒にキリスト教の深い知識を与えることができた。一年後、マルチェリーノ神父はカツさんに洗礼を授けた。彼女は「パウラ」の霊名を選んだ。ロレンツォ神父も啓吉を洗礼に導き、彼は「ルカ」の名を選んだ。今回もマルチェリーノ神父の作戦は見事に成功したのである!

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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