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最初の宣教師たち

補遺:東京大空襲――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(終)

 東京、一九四五年五月二十六日(土曜日)

 「今、私たちは上智大学にいる。ここはドイツ人イエズス会土たちの経営する大学である。私たちの家は、五月二十四日から二十五日にかけてのアメリカ軍による夜間の大空襲によって全焼してしまった。

 ここからは、二十四日木曜日の夜から二十五日金曜日の空襲、そして空襲が去った二十六日以後の記述である。

 二十四日の二十一時三十分ごろ、空襲警戒警報が発令された。ラジオはB29爆撃機の大編隊が南方の海から北上しつつあると報じていた。私はベッドに入ったばかりであったが、急いで起きて服を着、布団を畳み、それを下の階に運んだ。ベランダを開け放って、こんな場合にいつもしているとおり、聖堂の品物を運び出した。しかし、私はそれほどたいへんなことは起きないだろうという期待を持っていた。それまでの何回にもわたる爆撃で、周囲はほとんど完全に破壊されていた。残っているのは私たち家の後ろにある学校と、南側の谷の下の何軒かの家と寺だけであった。数個あったかばんを防空壕に入れるべきか、外に出しておくべきか、私は迷った。会員たちは誰も動こうとはしなかった。ただ、ミケーレ修道士だけが米軍機に向かって一人、悪態をついていた。パウロ神父はその時、病院にいた。

 二十二時ごろに、空襲警報が発令された。B29が接近していた。いったいどこを爆撃するのだろう? 私は聖堂の品物とパウロ神父のかばん、そしてミケーレ修道士とオクシリア(私たちの所に滞在していた船員)の荷物を防空壕に入れた。キエザ神父は何も入れようとしなかった。それは一種の「抗議行動」であった。彼は言っていた。「誰かが防空壕をかき回して、しまっておいた私の携帯ラジオを壊したからだ」と。私は防空壕のふたを閉めた。米軍機が一機飛んできた。それは探照灯の光線に捉えられて、青銀色に反射していた。高射砲が激しく砲撃していた。しかし命中することなく、米軍機は飛び去った。

 私はもう一つのふたのない防空壕に、布団の入った大きな包みを入れ、しっかりと土をかぶせた。数機の米軍機が上空を通過して行き、私たちは何発かの爆弾が炸裂する音を聞いた。新橋方面が火災で赤くなっていた。逃げる時の邪魔になると思って他の荷物も一緒に防空壕に入れ、ふたをして上に土をかぶせた。私の仕事は終わった。後は成り行きを見るしかない。そうだ! ご聖体を安全な場所に移さなければならない! 私はご聖体の入った器(チボリウム)を手に持ち、倉庫の中の定められた場所に運んだ。それから外を見に出た。方々から米軍機が飛来してきていた。焼夷弾がたびたび落下してきて、そのたびに私は三、四回地面に突っ伏した。ヒューヒューという、爆弾が落下してくる音が近かったからである。

 二十三時ごろ、四方に火の手が上がるのが見えた。私はもっとよく見るために二階に上がった。すると、私たちの印刷工場がある麹町の「中央出版社」の一帯が火の海になっていた。しかしそれは、何か遠くの出来事のように思われた。品川、五反田、新宿方面でも火災は発生していた。パガニーニ神父は、(火災は)鉄道に沿っていると言った。火災が「山の手線」に沿って起きているのであれば、それは本当に違いない! 猛烈な南風だった。赤坂見附辺りに爆弾が落ち、炎が立ち上った。煙は私たちの所まで届いた。

 二十三時三十分、一機の爆撃機が高射砲にやられて、炎に包まれて墜落した。爆撃が次第に近づいている。私たちは果たして助かるだろうか? 
空はほとんど煙に覆われていた。機影はもうほとんど見えないが、高射砲はなおも発砲を続けていた。一発の焼夷弾が南側の谷、私たちの家の前に落下した。風がその爆弾の破片をここまで飛ばしてきた。それは燃えながら落下してきたが、幸い被害はなかった。

 二十三時四十五分、今、私は倉庫にいる。少し前に私は一人の会員司祭に罪の赦しを与え、私もまた彼から罪の赦しを受けた。もはや危険は差し迫っていた……。真夜中ごろ、ヒューッという音がして、私は地面に伏した! キエザ神父がそばにいた。爆発音が響いた。爆弾は私たちの家のすぐ後ろの学校に落ちたのだ。焼けた爆弾の破片が、左側の住宅と壁に火をつけた。私たちはそれを消し止めた。庭から二階の自分の部屋を見上げてみた。そこは赤い光で輝いていた。私は心臓が止まる思いがした。私たちの家が燃えている! 

 急いで裏手に回ってみて、すぐその間違いに気づいた。家は今のところ無事で、部屋の窓ガラスを通して見えたのは、学校の火災の反射であったのだ。学校は今や巨大な燃える薪と化していた。誰かが「竹垣に水を掛けたらいい」と助言した。竹垣は学校の近くにあって、火がついたらもっと危険だからだ。小型ポンプを取りに行ったが、それは壊れていて役に立たなかった。垣根の所まで戻ってみると、パガニーニ神父が水をかけているのが見えたが、もうこれ以上頑張る必要はないだろう。すでに学校の火災は消えつつあったから。庭に戻ってみた。風が、谷で起きている火事の火の粉を運んでくる。今、最も差し迫っている大きな危険がこの方面からであるのは、明らかである。

 兵士(あるいは警官だったかもしれない)が近づいてきて、「無事かね?」と尋ねた。それから彼は右手の近所を一回りして戻ってきて、私たちに「もう危険はない」と伝えた。

 しかしそれは、明らかに私たちを励ますための気休めの言葉であって、何の慰めにもならないと私は思った。状況は本当に予断を許さないくらいひどいものだったので、誰もこの軍服を着た人の「大丈夫」という言葉を素直には信じることができなかった。

 私は聖体容器(チボリウム)を取りに行き、それをポケットに入れて持ってきた。こんな形で「聖なる主」を扱うことは確かに非礼にあたるが、主は今、何が起きているかをよくご存じでいらっしゃる。

 午前零時十五分、突然、庭でミケーレ修道士が叫んだ。「危ない! 危ない! 水! 水!」。庭の木に火がついて燃え出したのだ。誰かがバケツに二杯ほど水をかけたが、下の方ですでに火に包まれている寺から這い上がってくる炎をくい止めることは、もはや不可能だとすぐに分かった。炎は燃える木の葉に勢いを得て、木々の間を瞬く間に広がってきた。

 賄いのおばさんが廊下の隅にあったパンの小箱を探しに来た。私たちは本当にもう、どうしていいか分からなかった。猛烈なつむじ風が渦巻きを起こして、おびただしい火の粉と燃える木片を運んできた。私たちはみんな、ぼう然としていた。今は自分たち自身を炎と煙から守らなければならない。いったい誰が「家を守らないと」と考えることができただろう? 何時になっていたのだろう。私はすでに時間の観念を失っていた。他のB29爆撃機が上空を飛んでいるのかどうかさえ、気づかないでいた。高射砲の砲撃音はもう聞こえなかったが、こんなに煙の充満する中で、果たして迎撃ができるのだろうか?

 ミケーレ修道士が叫んだ「火事だ!」。その言葉どおり、日本家屋の板壁を炎の舌がちろちろと這っていた。それはキエザ神父の部屋の窓のすぐそばだった。水はもうなかった。どうしようもない。私は家の裏手に回って洋風の建物を見上げた。そこはすでに燃え上がっていた。万事休す! 助かるために、今は逃げることだけを考えるべきである。

 パガニーニ神父が「印刷工場へ行こう」と言って、賄いのおばさんと一緒に歩き出した。ミケーレ修道士と安藤君が私に追いついた。パンと米を持って逃げなければならないが、どこにあるのだろう? やがて安藤君がパンの入っている小箱を見つけ、それを持って歩いて行った。私は食料を入れる小箱を持ったが、中身を確かめる暇もゆとりもなかった。ミケーレ修道士は煙が充満している家の中で、必死になって米を探し続けていた。私は自転車に乗ろうとしたが、うまく乗れなかったので自転車を放り出した。その時、自分の持っている小箱に米が入っていることに気づいた。そこでミケーレ修道士に、もう米は探さなくてもいいと言った。絹ちゃん(神学生の姉)が防空頭巾の上から、最後のバケツの水をかぶって走り去った。残っているのはもう、私とミケーレ修道士の二人だけである。

 家は燃え続けていた。それは、まるで助けを求めて絶望の叫びを上げている生き物のように私には思われた。ミケーレ修道士が何枚かの掛け布団を自転車に積んで運ぼうとしていたが、それは絶望的な試みであった。「さあ、行こう!」。

 もはや、松明のように燃えている家のそばにいては危険である。ミケーレ修道士は、今度はリヤカーを持ち出してきて、なおも頑張り続けていた。私は米の入った箱を背中に担いで、その場を離れた。そしてくすぶった炭の山のようになってしまった学校の前を通って、四谷見附に向かった。
空気は熱く、煙はいっぱいで、道路は私たちより先に逃げた人が捨てていったさまざまな品物や残骸であふれていた。あちこちに壊れた自転車や三輪車がひっくり返っている。何もかもが全て役に立たないがらくたのように思われた。

 暗かった。煙で辺りはほとんど何も見えない。突風が周囲一面に火の粉をまき散らしていた。その夜は、町中を焼き尽くした火災の大音響に満ちていた。それは物を激しく叩きつけるようなすさまじい音、物が裂ける音、そして爆発する音であった。

 いったい、いつからこうした大音響がしていたのだろう。いや、いつからとは言えない。炎の中を家から逃げ出す前だったことだけは確かだ。谷がすっかり焼けたときには全く気にしていなかった。ばかげたことに私は、最初の火災の延焼を防ぐために作業員たちが働いているのだろうくらいにしか考えていなかった。しかし、今、火事そのものがこの大音響を引き起こしているのだということに気づいた。建築現場にも似たその大音響は、破壊の音そのものだったのだ。私は走り続けた。火の粉の雨は横なぐりに、そして激しく間断なく降り注いだ。煙で息が詰まりそうだった。あえぎながら口で呼吸をした。

 電車通りの方に曲がると、路肩に数人の兵士がなまこ板の陰にしゃがみ込んでいた。

 もうひとふんばりだ! やっと電車通りに着いた。右に曲がる。暗がりの中を歩いている人たちがいる。ここに吹き寄せる風はずっと涼しかった。でも私は考えた。

 「どこへ行くべきだろう?」 あたり一面は、すべて火と煙である。私は以前、何度目かの空襲の時、多くの人たちが絶対安全だと思っていた場所に避難して、そこに爆弾が落ちて全員焼け死んだという話を聞いたことを思い出した……。

 安藤君が前を歩いているのが見えた。私は彼を追い越した。そしてパガニーニ神父、賄いのおばさん、絹ちゃんに追いついた。私は彼らを追い越したが、誰も私に気づかなかった。パガニーニ神父が言った、「印刷工場も火事だ」と。

 当然だ。この夜、火事になっていない場所が果たしてあるだろうか? ここで休もう。これ以上歩いても同じである。私たちは四谷見附の交差点にいた。崩れ落ちた石垣のそばで、地面に横になった。それはセメントでできた防火用の水桶の近くであったが、それがいったい全体何の役に立つだろう?
少し熱風がよけられるが、喉が渇いてひりひりする。水筒を引っ張り出したが、からっぽだった。完全に乾ききっていた……。周りには大勢の人たちがいた。これが少なくともあの夜の暗がりで、もうろうとした意識の中で私が感じた印象であった……。

 パガニーニ神父が私に、他の人たちの安否を尋ねた。彼らはその後、どうなっただろう?

 オクシリアとキエザ神父は、みんなより先にリヤカーを引いて歩いて行った。その後、彼らがどうなったか分からない。そしてミケーレ修道士は? 彼は確か私の後で出発したはずだ。しきりに荷物を運ぼうとしていた。彼に何が起こったのか分からない。他のみんなは?……。よかった! みんな、ここにいる!

 辺りはどこもかしこも恐ろしい「世の終わり」のような光景である。

 町のどこもかしこも燃えている、燃えている、燃えている! 煙は濃いが、今、風は涼しい。炎に包まれている家とは距離があり、火の粉と煙は頭の上のかなり高いところを流れているからである。時々、パガニーニ神父が心配そうに尋ねる、「ミケーレ修道士はどこにいるのだろう? オクシリアは? キエザ神父は?」。私は答えることができなかった。生きてさえいてくれれば……。少しして突然、キエザ神父がガスマスクをつけて姿を現した。なんとオクシリアもミケーレ修道士もいる! みんな、そろっている! 神に感謝! 

 誰一人、けがはなかった。いったい、どうやってあの火災から逃げたのだろう。キエザ神父とオクシリアは状況が絶望的になった時、すぐにリヤカーに荷物を載せて印刷工場に向かったが、百メートルほど行ったところでリヤカーを捨て、崩れかかった塀に身を隠していた。後から来た仲間たちはそのリヤカーを見なかったか、または気づかなかったのだ。

 だがミケーレ修道士がそれを見つけて、自分の掛け布団を載せて引き始めた。そのうち一発の焼夷弾が上空、まさに彼の頭の上で爆発し、無数の炎の束を辺り一面にまき散らした。その焼夷弾の破片の一つが落下する時に彼をかすめ、その体を地面に打ち倒し、ズボンをボロボロにした。もし彼がほんのわずかでも前方にいたら、焼夷弾の破片はミケーレ修道士の頭を直撃し、万事休すであったろう! 彼はけがもせずに起き上がり、また歩き始めた。だが、燃えている焼夷弾の破片がリヤカーの上の布団に落ちていたことには気付かなかった。キエザ神父とオクシリアが避難場所からそれに気づき、ミケーレ修道士を呼び止めて飛び出した。彼らは燃え始めている布団を放り投げて、壁の後ろに逃げ込んだ。

 今私はここ、比較的安全な場所にいる。いくらか気持ちも落ち着いて、少しのパンにバターをつけて食べた。キエザ神父は印刷工場の様子を見に行った。オクシリアは、私のそばの地面に座っている。周囲の光景は、まだ恐ろしかった! 見渡す限り、一面火の海である。市ヶ谷方面の大本営の周囲には、何かが強烈な白い光を放ちながら燃えていた。新宿の辺りに、前の時には空襲を免れた百貨店が、今まさに火煙に包まれながら崩れ落ち、火花と火柱を同時に天に立ち上らせていた。それらは空中に舞い上がり、風に吹き飛ばされていた。「東京は、どこもかしこもここと同じだ!」と、オクシリアが叫んだ。

 それは大げさな表現だったかもしれないが、確かに火災は広範囲に及んでいて、風によってその範囲をますます拡大させていた。また避難しなければならないが、どこに逃げたらよいのか分からない。その時、空襲警報解除のサイレンが鳴った。今、何時だろう? 時間を聞く気がしなかった。爆撃機はいったい何機ぐらい来たのだろう? 二百機? 三百機? 四百機? しかし、その問いすらも無意味ではないのか? 被害はもう、見たとおりなのだから。

 私たちの近くに市電が停車した。オクシリアが「私たちも乗れるかどうか、行ってみよう」と言った。そして私たちは、乗車することができた。
車内では人々は横になったり、うずくまったりしていた。熟睡している人あり、居眠りしている人あり、ひそひそ話している人ありで、他人のことには全く無関心な雰囲気であった。まるで何も起こらなかったかのようだ! 

 私たちなら絶望し、呪い、泣き出しかねないのに! この人たちはいったい……。

 運命論者なのだろうか? そうかもしれない。しかし他の理由もある。彼らは周りの人を恐れているのだ。誰か聞き耳を立てている者がいるかもしれない! それは私服警官?それとも警察のスパイ?かもしれない。あの当時、不満や悪口は精神の弱さの表れと見られたり、国への反抗の兆しと受け取られたり、売国奴の態度として見られていた。あの時代、そうした理由でいとも簡単に、周囲から人が忽然と姿を消すことがあったのだ。

 午前四時、やっと時間が分かった。誰かが「四時だろう」と言う。いつもだと、この時間になると空がいくらか明るくなり始めるのだが、この火と煙の中ではまるで真夜中のようだ。

 「誰かよその人が、防空壕から私たちの荷物を掘り出すといけないから」と、オクシリアが「家に戻ろう」と言いだした。(家はもう、火災で焼失しているのだが)。全部が焼けてしまったわけでもないだろうということで、私たちは家に向かった。そしてかつて家があった場所に、やっとたどり着いた。そこには、わずかの外壁と煙突、そして倉庫の半分以外には何もなかった。家の建っていた場所さえ見分けがつかなくなっていた。わずかに残っていた壁がなかったら、ここに来ても、きっと分からなかったに違いない。私たちが普段使っていた道も、すっかりその様子を変えていた。学校の建物は姿を消し、以前残っていた何軒かの家も、私たちの家と同様、すべて消えてしまっていた。道路は、まるで広大な「瓦礫の畑」を通る曲がりくねった小道のようであった。そうした瓦礫の中に、金庫や丈の低い垣根の残骸、灯篭、炭化した木々、銭湯の煙突などが散見された。煙突は、空を指さす巨大な人間の指のように私には思われた。朝の明るい光が煙のカーテンを通して次第に差し込んでくるにつれて、周囲が全て廃虚となっていることが明らかになった。私は積み上げた土の上に座り、そして、「待った」。ミケーレ修道士とオクシリアが中央出版社に行くために出かけて行った。彼らは、そこがどうなっているか確かめに行ったのである。とりあえず誰かがここにいて、荷物の番をしているのかよい。なぜなら、私たちが防空壕に避難させておいた品物は焼けずに残っていたからである。

 午前七時半に白幡さん(元カトリック王子教会の信徒の女性)が来た。彼女は私に、兵隊さんからもらったたばこと握り飯をくれた。白幡さんは別の場所でも、すでに三回も爆撃に遭っていた。それは実に容赦のない運命であるが、こうした不運は、私たちの周囲には実にたくさんあった。爆撃で住んでいた家を失い、親戚の元に逃れ、そこでもまた焼夷弾が落ちた。そして最後に「絶対安全だ」と思っていた地方の知人の所でも、悲劇はまた繰り返された。今、白幡さんがどこに身を寄せているのか分からない。本当にかわいそうな人である! 

 安藤君が私たちの所に来た。顔の色が真っ青で、「頭が痛い」と言って地面に毛布を広げるなり、その上に長々と横になって眠ろうとした。しかし彼は眠れなかった。風が強く、その上に雨も降り始めていたからである。

 私も中央出版社に向かった。そこでミケーレ修道士、オクシリア、賄いのおばさん、絹ちゃんを見つけた。彼らは風をよけられる小さな防空壕で、少しでも眠ろうとしていた。中央出版社の建物は完全に破壊されていて、地下から少し煙が出ていた。

 パガニーニ神父は外から入り込む煙を食い止めるため、すべての窓に泥を塗りつけようとした。それはまだ、自分たちの手で守ることのできるもの、特に印刷用の紙を守るためなのであった。キエザ神父は新しい避難所を見つけるために出かけていった。私は焼け落ちた家の跡地に戻ったが、しばらくしてからパウロ神父も入院していた病院から到着した。

 この無残な光景は、彼にとって悲嘆にくれるものであったが、その悲しみに長くとどまることなく、パウロ神父は私たちのためにすぐ避難所を探しに行った。彼は上智大学の構内に避難所を見つけられたらと願っていた。やがてほどなくして戻ってくると、臨時的にではあるが、大学に避難することができると私たちに告げた。早速私たちは、荷物を防空壕から引き出して手押し車に積み込んだ。そして安藤君とオクシリアがパウロ神父と一緒に、上智大学に向かった。ミケーレ修道士は中央出版社にとどまった。彼は煙と埃で目を痛めていて、開けることができなかった。私は聖体容器(チボリウム)と雨がっぱを白幡さんに預けて、荷物を運ぶ手伝いに向かった。引っ越しが終わったのは、もう夕暮れ近くで、私たちはみんな一部屋に落ち着いた。総勢六人であった。パガニーニ神父、オクシリア、私、安藤君、賄いのおばさんとその娘の絹ちゃんである。パウロ神父は病院に戻り、ミケーレ修道士はパウロ神父に付き添って病院に戻った。キエザ神父の姿が見えなかったが、誰も心配していなかった。私たちはみんな、彼が以前話していた場所へ行ったこと、つまり浅野さんの所に避難したのを知っていたからである。

ここからは、前項に加筆されている文章

 半蔵門から新宿へ向かう道には、無言のうちに黙々と歩む人たちの列が途切れることなく続いていた。避難場所を求める無数の被災者たちである。リヤカーを引き、二輪の手押し車を押し、いろいろな大きさの包みを背負いながら、みんなゆっくりと歩いていた。

 そうした荷物は、彼らがあの恐ろしい爆撃から命からがら持ち出すことのできたわずかなものであり、彼らの全財産であったのだ。彼らはこれからどこに行くのだろう? 人々の多くはすでに一度は爆撃を経験していて、不安を抱えながら、「生き延びるために新しい避難所を見つける」という小さな可能性に賭けていたのだろう。

 人々は、わずかでも休息が取れる親戚や友人の家を思い出しては足を動かし、歩き続けていた。もう夕方であったが、被災者の行進は、足を引きずるげたの音と、手押し車の車輪の鈍いざわめきを伴って、いつまでも続いていた。

 私たちもこうした無数の被災者の一人なのだが、幸いなことに神の恵みで、あまり遠くへ行かずに避難所を見つけることができ、少なくとも今は雨露をしのげる屋根の下にいられる。私は疲れ果てて、つい横になった。一睡もせずに過ごした二晩と、労苦と恐怖の二夜の後で手足は棒のようになり、全身が痛かった。

 一九四五年五月二十七日(日曜日)。一昨日の大空襲の被害は甚大であった。あの夜、来襲した敵機は二百五十機ほどであったと言われている。

 私はもっと多数であったと思い、またあの時の強風は、少なくとも爆撃機五百機分に相当する強さだと感じた。爆撃を受けた地域は、銀座から中野、それ以上の広範囲に及んだ。皇太后のいる皇居、海軍省、陸軍省、東京駅、関口のカトリック司教座聖堂、麻布教会、新宿駅などが爆撃され、損害を受けたり破壊されたりした。この日、市電はすべて運休となったので、私は歩いて放送局に行った。途中の道端で人垣が見えた。みんな何かをじっと見つめていて、ある人は頭を垂れ、ある人たちは合掌していた。「何か」、それは廃虚に立ち上る小さな炎であった。死体を焼いていたのである! 
この爆撃による犠牲者はいったいどれくらいであろう? 去る三月の犠牲者(東京大空襲)は、死者が十万人を超えると伝えられていた。今回の犠牲者は、それよりもっとずっと多いと思われる! 

 聞いた話によると、破壊された明治神宮外苑にはおびただしい数の死体があるという。一九四五年五月二十八日(月)、オクシリアがキエザ神父と一緒に浅野さんの所へ、パガニーニ神父はベタニアに、私はミケーレ修道士と一緒にサレジオ会に疎開することが決まった。しかしミケーレ修道士は、何か必要な仕事さえ見つかれば、パウロ神父のいる聖母病院に残るであろう。私たちは市電が運転を再開したら出発することになる。女性たちと安藤君は、親戚の所に避難することになるだろう。
こうして離散(ディアスポラ)が完結する。

(終)

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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