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これってどんな種?

主よ、助けてくださいという種 年間第19主日(マタイ14・22〜33)

 私がまだ小学2年生の頃でしょうか。父の会社の慰安旅行で舟釣りに連れて行ってもらいました。舟が留まり私が釣り糸を垂らして釣りを始めてしばらくした時に、父は私の背中を押して海に落としたのです。私は無我夢中で岸に泳いで行った記憶があります。その頃は、まだうまく泳ぐことができず、犬かきで泳いだのではないかと思います。今、考えると父が私に泳ぎ方を教えてくれたのでしょうが、当時は恐怖の何ものでもありませんでした。後で知ったのですが、私の兄弟はみんな同じように落とされたそうです。きょうのみことばで、ペトロが「主よ、助けてください」と言ったのは、本当に怖かったのだと思います。

 きょうのみことばは、イエス様が湖の上を歩く場面です。イエス様は、5千人もの群衆に5つのパンと2匹の魚を増やして食べさせた後、弟子たちを強いて舟に乗せ向こう岸へ先に出発させられ、さらに、まだイエス様の話を聞きたい、病を癒やされたいと思っている群衆を帰らせます。弟子たちは、イエス様がこの後どのようにして向こう岸へ来られるのだろうかと思ったに違いありませんが、それでも、イエス様が言われた通りに向こう岸へ向けて舟を進ませます。

 ひとり残られたイエス様は、祈るために山にお登りになられます。みことばの中で、イエス様が「祈られる」というときは、その後に大切なことをなさる時でした。一番有名なのは、ゲッセマネでの祈りですが、他にも何度かお一人で山に行かれて祈られています。今回は、弟子たちに「信仰を深める」ことを伝えようとしていたのではないでしょうか。

 イエス様は、夕方になっても祈られていました。群衆にパンを与えようとされたのが「夕方近くになった」(マタイ14・15)とありますから、かなり長い時間を祈りにあてられたのではないでしょうか。もちろん、そこには、おん父も聖霊もおられたことでしょう。私たちが一日の中で、あるいは、どこかに黙想という特別な祈りの時間を作って、三位一体の神に祈るのはとても素晴らしいことです。司祭や修道者は、年に数日間を使って【黙想】をしています。その中で、1年の霊的目標や識別などをいたします。

 さて、弟子たちを乗せた舟は、湖の中ほどまで進んだところで、向かい風を受け波に悩まされてしまいます。弟子たちは、出発した岸に戻ることも前に進むこともできません。ただただ舟が沈むのではないかという恐怖に怯えていたのではないでしょうか。弟子たちの中には、ペトロを始め数人の漁師もいたでしょうから、湖が荒れた時の恐ろしさをよく知っていたのです。私たちの日常生活や信仰生活の中でも、また、共同体の中でもどうすればいいのか分からない霊的な嵐の状態に陥ることがあるのではないでしょうか。

 そのような時に、夜明けごろイエス様が湖の上を歩いて弟子たちが乗っている舟へと向かって来られます。弟子たちは、いつも一緒に生活をしていたイエス様だとは、気づかず恐ろしさのあまり「幽霊だ」と叫びます。彼らは、嵐にあって恐怖の状態の時に、湖の上を歩くイエス様を見たのでした。弟子たちは、人が湖の上を歩くという普通ではあり得ないことを目にしたのですから、「幽霊だ」と叫ぶのも無理はないかと思います。さらに、「夜明けごろ」とありますので、あたりはまだ薄暗く、はっきりとイエス様の姿を見ることもできなかったのでしょう。

 イエス様は、恐怖に怯えている弟子たちに「安心しなさい。わたしである。恐れることはない」と言われます。弟子たちは、この言葉を聞いて本当にイエス様が湖の上を歩いて来られたのだとわかります。彼らは、イエス様のこの言葉を聞いて、きっと安心したことでしょう。イエス様の言葉は、私たちが苦しんでいる時、どうすればいいのか分からない時にも「安心なさい」という言葉掛けをしてくださっていることでしょう。

 ペトロは、イエス様の言葉を受けて「主よ、もしあなたでしたら、わたしに命じて、水の上のあなたのもとにいかせてください」と言います。ここで、ペトロは、本当にイエス様なのかそれとも幽霊なのかと疑心暗記だったのではないでしょうか。ペトロらしい言葉と言ってもいいでしょう。ペトロの「あなたのもとにいかせてください」という言葉は、本当に苦しい時の私たちの願い、祈りではないでしょうか。イエス様は、私たちがどこにいるのか、これからどこへ進めばいいのかと悩んでいる時、謙遜な心でイエス様に「主よ、あなたのもとにいかせてください」と祈る時きっとイエス様は、「来なさい」と言われることでしょう。

 また、ペトロは、漁師ですから湖の恐ろしさは、十分に知っているはずですが、それでもあえて、舟から降りて湖の上を歩き、イエス様の所に向かうことを願ったというのは、かなりの勇気がいったのではないでしょうか。ペトロは、怖さを知りながらもあえてイエス様の所に行きたかったのだと思います。

 しかし、そのようなペトロも強い風に気付き恐れて、沈みかけます。ペトロは、「主よ、助けてください」とイエス様に願います。ペトロは、本当に無我夢中でイエス様に叫んだのではないでしょうか。そこには、「自分が溺れて死んでしまう」という恐怖もあったと思います。同時に、自分が「行きたい」と言ったのに「助けてください」というのは、ちょっと恥ずかしい気持ちになったのかもしれません。

 イエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロを捕まえられ、一緒に舟に乗られます。イエス様は、私たちが「困難や苦難」に陥っている時、ご自分に「主よ、助けてください」と叫ぶのを待っているのではないでしょか。イエス様は、私たちが何度も罪を犯し、弱り果て、また、信仰生活の壁にぶつかっても、私たちが祈る時、何度でも【手を差し伸べられ】助けてくださいます。私たちは、このことに信頼して日々を過ごすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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