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これってどんな種?

倦むことなく祈るという種 年間第29主日(ルカ18・1〜8)

 ある方が「神様は何でもご存じだから、一度お願いの祈りをすれば、聞き入れてくださる」と言われていました。確かに、マタイ福音書では「あなた方の父は、あなた方が願う前に、必要なものをすべて知っておられるからである」(マタイ6・8)とありますように、おん父は、私たちのことをすべてご存知ですから、一度だけ祈ったら聞き入れてくださるかもしれません。だからと言って「一度だけ」祈ればいいのかというのもおかしいことです。「倦まず弛まず祈る」という中で信仰が養われるのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、「『不正な裁判官とやもめ』の譬え話」の場面です。イエス様と弟子たちは、エルサレムへ向けて「十字架に向かう旅」を続けています。その中で、イエス様は「さて、イエスは弟子たちに倦むことなく、絶えず祈ることを教えるために、一つの喩えを語られた」とみことばにもありますように【祈りの姿勢】を弟子たちに教えられているようです。

 弟子たちはイエス様が祈られている姿を見て、自分たちにも「【祈り】を教えてください」(ルカ11・1)で言ったことがありますし、真夜中に友人が来た人が彼のために何ももてなすものがなくて、友だちの所にパンを借りる場面もありました。その時も「その執拗さに起き出して、必要なものは何でも貸してくれるだろう」(ルカ11・5〜8参照)という場面もあります。このように見てみますと、【祈り】というのは、イエス様に従って歩み中で必要不可欠なものということがわかります。

 みことばの「倦むことなく」の【倦む】は「飽きる」「疲れる」(『新明解国語辞典』)という意味があります。もしかしたら、弟子たちはイエス様に「主の祈り」を教えていただいた後にはあまり祈っていなかったのかもしれません。イエス様がここで弟子たちに喩えを使って教えられたのは、これからの歩みの中で【祈ること】の大切さを教えられたかったのではないでしょうか。

 イエス様は、「ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。同じ町に、一人のやもめがいたが、いつも彼の所に来て……」という喩えを語り始められます。この当時の女性は、何か報酬を得るような「仕事」をすることができず夫(男性)から養ってもらっていたようです。ですから、【やもめ】となった彼女は、自分が生きるための生活費が必要だったのです。彼女は、裁判官の所に行って「どうか、わたしの敵を裁いてください」と願います。彼女にとって【敵】とは、彼女が貰うはずの財産を渡さない親族だったのかもしれませんし、「やもめの家を食いつぶし、見せかけの長い祈りをする。」とありますように、律法学者だったのかもしれません(ルカ20・45〜47参照)。

 裁判官は、彼女の訴えを聞き入れようとしませんでした。しかし、彼女が執拗に何度も訴えに来るのがわずらわしくなったのでしょう。彼は、「わたしは神を畏れないし、人を人とも思わない。……絶えずやって来て、わたしをうんざりさせるに違いない。」と心の中で思います。イエス様は、この喩えを話される冒頭でも、「ある町に、神を畏れず……」と言われ、また、改めて裁判官の思いを「神を畏れず……」と同じ言葉を使って裁判官がいかに傲慢であるかを強調されておられます。

 この裁判官の傲慢さは、その町の中でも有名だったのかもしれません。しかし、そのような傲慢極まりない裁判官であっても、やもめにとっては、自分の【敵】を裁いてもらわないと生きていけなかったのです。たぶん、町の人々は、彼女が裁判官の所に訴えに行っているのを気づいていたことでしょうし、冷ややかな目で彼女を見ていたことでしょう。それでも彼女は、裁判官をうんざりさせるほど、何度でも訴えに行ったのです。みことばには、書かれてありませんが、彼女はこの裁判官によって訴えを聞き入れられ【敵】を裁いてもらったことでしょう。

 イエス様は、この不正な裁判官とおん父との違いを「まして神は、昼となく夜となく、ご自分に叫び求める選ばれた人のために、……神は速やかに彼らのために裁いてくださる。」と言われます。イエス様は、弟子たちに「倦むことなく、絶えず祈る」ようにとこの喩えを話され、さらに「『昼となく夜となく、叫び求める』ように祈る」ことを教えられたのです。

 パウロは、「み言葉を宣べ伝えなさい。善い時にも、悪い時にも、常に専念しなさい。」(2テモテ4・2)と言っています。祈りの姿は、「倦むことなく、また、昼となく夜となく」祈るとともに、「善い時にも、悪い時にも」祈ることも必要なのです。そのように祈ることで信仰が培われていくのではないでしょうか。イエス様は、「人の子が来るとき、地上に信仰が見出されるであろうか」と言われます。きょうのみことばを通して、私たちは、イエス様が教えてくださった、「倦むことなく祈る」姿を忘れることなく、あらためて日々の生活の中で【祈る】習慣を持つことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 倦むことなく祈るという種 年間第29主日(ルカ18・1〜8)

  2. 信仰を培うという種 年間第27主日(ルカ17・5〜10)

  3. 愛で溢れた関心を持つという種 年間第26主日(ルカ16・19〜31)

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