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これってどんな種?

三位一体の神とともにという種 三位一体の主日(マタイ28・16〜20)

 きょうの典礼は、「三位一体の主日」です。「三位一体」について思い出すお話があります。それは、アウグスチヌスが三位一体について考えながら海辺を歩いる時に、1人の少年が砂に穴を掘り海の水をその中にいれていました。アウグスチヌスがその子に「何をしているの」と尋ねると、その子は「海の水を全部この穴にいれるの」と答えたそうです。アウグスチヌスが「そのようなことは、不可能だよ」と言うと、その子は「いま、あなたが考えている『三位一体の神秘』を人の頭で理解しようとするのと同じですよ」と言ってその子が姿を消したのです。

 私たちは、【三位一体の神秘】について頭で理解しようとしても難しいことですが、何となく三位一体について感じることがあるのではないでしょうか。教会の中に限らず、日常の生活の中で「あれ、いま心に響いた声は、聖霊からかな」とか、「父よ、どうか私の願いを聞いてください」とか、「イエス様、これから行うことは、私一人では難しいので一緒に歩いてください」とか私たちの中で会話をしているのではないでしょうか。大切なことは、私たちが【三位一体の神】を身近に感じて歩んでいくことなのです。

 きょうのみことばは、弟子たちがイエス様に示されたガリラヤに行って復活されたイエス様に出会う場面です。きょうのみことばが書かれたマタイ28章は、イエス様が葬られている墓に婦人たちが向かうところから始まっています。彼女たちは、墓でイエス様に出会うことができませんでしたが、その代わりにみ使いが「弟子たちにこう告げなさい、『イエスが死者の中から復活された。あなた方よりも先にガリラヤに行かれる。あなた方はそこでイエスにお会いできる』。これが、あなた方に伝えることです」(マタイ28・7)と伝えられます。

 彼女たちは、弟子たちに知らせるために走って向かう途中でイエス様に出会います。イエス様は、彼女たちに「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くよう告げ知らせなさい。そこでわたしに会える」(マタイ28・10)と言われます。彼女たちは、み使いから言われ、実際にイエス様と出会って再び「ガリラヤに行くように」と言われたのです。

 彼女たちから「復活されたイエス様に出会って、『ガリラヤに行きなさい』と言われました」と聞いた弟子たちの反応はどのようなことだったでしょうか。みことばには書かれてありませんが、まだ半信半疑だったことでしょう。それでも、弟子たちは、彼女たちが伝えに従ってエルサムからガリラヤまで向かいます。彼らは、道すがらイエス様がなさったいろいろな奇跡や教えを思い出しながら歩いて行ったのではないでしょうか。

 そして、弟子たちはイエス様が示された山に行きます。不思議なことですが、み使いやイエス様が言われたことは「ガリラヤに行きなさい」と言うだけで、特定の場所まで示されていないのに、示された山に行くことができたのです。この山は、イエス様が弟子たちに大切な教えである『山上の説教』をされた所と言われています。みことばには、書かれていませんが、弟子たちの心の中に【三位一体の神】の声が響いたのかもしれません。

 弟子たちは、山に行ってイエス様と出会います。彼らは、イエス様を見て伏し拝みますが、疑う人もいました。きっと彼らは、復活されたイエス様に出会い驚きと喜びが入り混じり、信じられないという気持ちがあったのではないでしょうか。そんな彼らの所に、イエス様は、近づかれ「わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている。それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい」と言われます。イエス様はかつて「サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のもとに行きなさい」(マタイ10・6)と言われましたが、きょうのみことばによってすべての国の人々に対して開かれることになったのです。

 イエス様は、「父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。」と言われます。イエス様は、弟子たちが人々に福音を伝え、洗礼へと導くためにご自分が持っている権能を授けたのではないでしょうか。最初は疑うような不完全な信仰の弟子たちは、イエス様からいただいた権能を活用しながら徐々にみことばを伝えることができるようになって行ったのです。私たちは、洗礼の恵みをいただく時に「わたしは父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授ける」と言われます。この言葉によって私たちは、正式に教会の一員となると同時に、【三位一体の神】と交わるという恵みもいただいているのではないでしょうか。

 みことばは、イエス様の「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」という言葉で締められています。私たちは、イエス様がともにおられるからみことばを伝えていくことができます。私たちは、日々の生活の中で【三位一体の神】を感じ、信頼のうちに歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 小さな捧げ物という種 年間第17主日(ヨハネ6・1〜15)

  2. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  3. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

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