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みことばの響き

わたしは主のはしためという種 待降節第4主日(ルカ1・26〜38)

 私たちの生活に身近なものとして「スイッチ」があります。普段は、意識しませんが、朝起きてエアコンの電源を入れて部屋を温めたり、冷やしたりしますし、仕事をするときパソコンの電源を入れます。朝の祈りを行って1日の生活を始める人、寝る前の祈りを行って1日を終えるという「スイッチ」もあるのではないでしょうか。このように何かを始める時、終わる時に「スイッチ」が必要になってきます。聖書の中では、「光あれ」(創世記1・3)というおん父の言葉も一つの【スイッチ】と言ってもいいのではないでしょうか。改めて私たちの生活の中にある【スイッチ】を意識してみてもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、ガブリエルからマリア様への【お告げ】の場面です。みことばは、「さて、6か月目に、み使いガブリエルが、神のもとから、ガリラヤのナザレという町の1人のおとめのもとに遣わされた」という言葉で始まっています。ガブリエルは、エリザベトが身籠ってから「6か月後」にマリア様の所に遣わされたのでした。

 ガブリエルは、「喜びなさい、恵まれた方よ。主はあなたとともにおられます」とマリア様に伝えます。どうしてガブリエルは、マリア様に「喜びなさい、恵まれた方よ。」と言ったのでしょうか。私たちは、マリア様がイエス様の母ということで「恵まれた方」ということがわかりますが、マリア様は、何のことだかわからなかったことでしょう。その答えとして「主はあなたとともにおられます」という言葉ではないでしょうか。このように考えますと、マリア様が特別な方だからではなく、【主がともにおられる】ということが【恵まれた方】と言われる意味と言ってもいいでしょう。そして、私たち一人ひとりにも【主がともにおられる】ので【恵まれた方】ということになり、私たちはどれだけ【アガペの愛】という恵みを、おん父から頂いているかわかるのではないでしょうか。

 ガブリエルの挨拶を聞いて困惑しているマリア様に、ガブリエルは「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。……その治世は限りなく続く」とマリア様に伝えます。ガブリエルは、マリア様が身籠るイエス様がどのようなお方であるかを伝えます。その中には、「いと高きかたと呼ばれる」こと、「父ダビデの王座を与える」こと、そして「その治世が限りなく続く」ことが示されています。

 ガブリエルのお告げの中には、イエス様がこの世に【王】としてお生まれになられ、この世が終わる時まで治められると伝えています。ですから、イエス様は、私たちが生活している【今】の時代にも【王】としての【治世】が続いていることになるのです。私たちは、自分たちの生活、社会など周りを見ますと、本当にこの世界をイエス様が王としての治世が続いているのか、と疑問を抱くこともあるかもしれません。私たちの周りには、時には目を覆痛くなること、辛くて深い悲しみに沈むこと、争いや憎しみが起こることなど、ネガティブな事柄が起こっています。一方、結婚や子どもの誕生、小さな喜びや幸せを感じることもあることでしょう。これら全てにおいてイエス様の治世は、続いていると言ってもいいのです。

 さて、マリア様は、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」とガブリエルに伝えます。みことばには「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけで」とありますし、マタイ福音書にも「母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に」(マタイ1・18)とありますようにマリア様は、ヨセフ様のことを知っていたでしょうが、正式な結婚はまだだったのかもしれません。ガブリエルは、「聖霊はあなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。……」と伝えます。私たちがミサの時に唱える「信仰宣言」の中に「聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました」(ニケア・コンスタンチノープル信条)と唱えていますし「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」(使徒信条)でも唱えています。マリア様は、イエス様をおん父の恵みによって「聖霊」によってイエス様をやどされたのでした。」

 続けてガブリエルは、「あなたの親戚エルザベトも、年老いていながら男の子を身籠っている。……神には、何一つお出来にならないことはない」と伝えます。マリア様は、この言葉を聞かれて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言われます。マリア様は、ご自分のことを「主のはしため」と呼ばれ、謙遜な心でガブリエルからの【お告げ】をお受けになられます。そして、このマリア様の「お言葉どおり、この身になりますように」という【スイッチ】によって、おん子イエス様がお生まれになられたのです。

 私たちは、日常生活の中で恵みを感じること、または、不快な思いを抱くことなどさまざまなことが起こります。それでも、私たちは、おん父がともにおられることを感じ、マリア様のようにおん父からのみことばを受け入れて、「主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と謙遜な心で応えることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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