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おうち黙想

第2回「フランシスコは、説明をやめた」〜聖フランシスコ年黙想講話〜

今回のポイント
 第2回は、「説明をやめた」というテーマで、意味づけ・正当化に追い詰められる現代の強迫から自由になる道を示します。フランシスコは、後世が与える立派な物語や理念の設計図を最初から持っていたのではなく、「福音に従って生きる」という剥き出しの単純さで前に進みました。言葉で承認を得る代わりに、歩みそのものが沈黙の返答になったのです。
 私たちは「説明できない自分」が怖くて、信仰や奉仕を言葉で補強し続けます。しかし神との関係は本来、言語で管理し切れる対象ではありません。理由が言えない沈黙を許すことは無責任ではなく、ハンドルを自分の論理から神の導きへ手渡す行為であり、そこに深い安らぎと自由が芽吹きます。

1. 「なぜ?」という問いに追い詰められる私たち

 私たちは、「意味」の洪水の中で生きています。 何かを始めれば「なぜそれをするのか」と問われ、何かを選べば「どんなメリットがあるのか」と説明を求められます。特に、現代社会において「説明できないこと」は、「考えていないこと」や「無責任なこと」と同義であるかのように扱われがちです。
 それは、信仰の世界や奉仕の現場でも同じかもしれません。 「なぜ、あえてこの道を選んだのか」 「この活動は、社会の役に立っているのか」 「あなたの使命(ミッション)は何なのか」
 こうした問いに対して、私たちはいつも「立派な正解」を用意しておかなければならないような、かすかな強迫観念を抱いています。誰かを納得させ、自分自身をも納得させるための「意味付け」という武装。これがないと、私たちは自分の立っている場所が急に不安定になったように感じてしまうのです。

2. 後付けの「意味」を脱ぎ捨てる

 聖フランシスコの生涯を振り返るとき、私たちはつい、彼が最初から明確なビジョンを持って動いていたかのように錯覚してしまいます。「彼は格差社会に一石を投じるために清貧を選んだのだ」とか、「環境保護の先駆者として自然を愛したのだ」といった具合に。
 しかし、それは後世の私たちが、彼のあまりに鮮烈な生き方を理解するために、勝手に整えた「説明」に過ぎません。
 実際のフランシスコはどうだったでしょうか。 彼は、教皇インノケンティウス3世の前に立ったとき、緻密な修道会の運営計画書を持っていたわけではありませんでした。彼が持っていたのは、ただ「福音に従って生きる」という、説明しようのないほど単純で、あまりに剥き出しな生の実感だけでした。
 彼は、自分の生き方を社会学的に分析したり、神学的に定義したりすることに情熱を傾けませんでした。 「なぜこの道なのか」という問いに対して、彼は言葉で答える代わりに、ただその道を歩き続けるという「沈黙」を選んだのです。
 彼は、自分の人生を誰かに説明して「承認」してもらう必要性を、どこかで手放していました。説明をやめたとき、彼は自分を縛っていた「論理」という檻から自由になったのです。

3. 説明できないことへの不安

 私たちはなぜ、自分の選択を説明したがるのでしょうか。 それは、「説明できない自分」が怖いからです。
 もし「なぜ?」と聞かれて答えに詰まってしまったら、自分の人生が根拠のない、スカスカなものに思えてしまう。周囲から「何も考えていない人」だと思われるのが怖い。あるいは、自分自身が「これでいいのだ」と確信を持ち続けるために、絶えず言葉による補強を必要としているのかもしれません。
 特に、司祭や修道者、教会の中で役割を担っている方々は、他者に対して「信じる理由」や「奉仕の意義」を語らなければならない場面が多いでしょう。それは大切なことですが、いつの間にか「言葉」が「実態」を追い越し、自分でも何を信じているのか分からなくなることはないでしょうか。
 フランシスコが私たちに示しているのは、「説明できないまま、そこにいてもいい」という、神の前での究極の許可です。

4. 神の前での「聖なる無知」

 フランシスコは、多くの学識ある弟子たちに対しても、知識を誇ることを戒めました。それは単に「勉強するな」という意味ではなく、「言葉で神をコントロールしようとするな」という警告だったのではないでしょうか。
 神との関係は、本来、説明しきれるものではありません。 「なぜ神を愛するのか」「なぜこの苦しみが与えられるのか」 これらに対する論理的な答えなど、本当はどこにもありません。
 私たちは、神の前で「説明できない沈黙」を守ることを、もっと自分に許してもよいのです。 「理由は分かりませんが、私は今、ここに導かれています」 その一言で十分なのです。
 意味付けという「鎧」を脱ぎ捨て、説明という「盾」を置くとき、私たちは初めて、ありのままの自分として神の前に立つことができます。そこには、他人の評価や世間の納得に左右されない、深い安らぎがあります。

5. 今月の黙想の問い

 この3月、4月の春の訪れとともに、自分の中の「説明したい衝動」を静かに観察してみましょう。
 1.最近、誰か(あるいは自分自身)に対して、自分の生き方や選択を「正当化」しようとした瞬間はありましたか?
 2.もし、あなたの活動や信仰に「社会的な役立ち」や「明確な理由」が一つもなかったとしたら、それでもあなたはそこに留まりますか?
 3.「説明できないけれど、これでいい」と感じている自分を、神様はどのような目で見つめておられるでしょうか。

むすび:沈黙の中で芽吹くもの

 説明をやめることは、無責任になることではありません。 それは、自分の人生のハンドルを「自分の論理」から「神の導き」へと明け渡すことです。
 種が土の中で芽吹くとき、その理由を誰かに説明することはありません。ただ、与えられた命のままに沈黙の中で動いています。 フランシスコもまた、そのように生きました。
 この2ヶ月間、もし誰かに「なぜ?」と問われたら、心の中でそっと呟いてみてください。 「理由は、神様だけがご存知です」と。 説明できない沈黙を、神様の前で味わい直す。そこから、あなただけの新しい自由が始まります。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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