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週日の福音解説

証しは安全な場所では始まらない(復活節第6月曜日)

ヨハネによる福音書15章26‐16章4a節

15:26 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」 16:1 「これらのことを話したのは、あなたがたがつまずかないためである。 16:2 あなたがたは会堂から追放されるだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 16:3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。 16:4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。……」



分析

 この箇所は、「証し」という言葉が、穏やかな宗教活動ではなく、対立と排除の中で現れる現実であることを示しています。イエスはまず、弁護者、すなわち真理の霊について語ります。この霊は「わたしについて証しをする」と言われます。ここでの証しは、単なる説明や教義の提示ではありません。存在の真実を明らかにする働きです。そして続けて、「あなたがたも証しをする」と言われます。霊の証しと弟子の証しは分離されていません。人間の証しは、霊の働きに参与する形で成立します。
 しかしその直後に語られるのは、迫害の現実です。「会堂から追放される」「殺す者が神に奉仕していると考える」。ここで重要なのは、迫害が無理解からではなく、「宗教的確信」から起こるとされている点です。迫害する側は、自分たちを正しいと信じています。つまり、対立は善悪の自覚的対立ではなく、互いに正しいと信じる中で生じます。
 イエスはその原因を「知らないこと」に求めます。「父をもわたしをも知らないからである」。ここでの「知る」は情報の不足ではありません。関係の欠如です。神を知っていると考えている人々が、実際には神との関係を持っていない。そのズレが、暴力的な行為を正当化します。宗教的確信が、神との断絶を隠してしまう危険が示されています。
 このような状況をあらかじめ語る理由は、「つまずかないため」です。つまずきとは、苦難そのものではなく、その苦難によって信仰の前提が崩れることです。弟子たちは、正しいことをすれば受け入れられると期待しているかもしれません。しかしイエスは、その期待を修正します。証しは必ずしも理解や承認を生みません。むしろ拒絶を招くことがあります。
 さらに、「思い出させる」という目的が強調されます。出来事が起きたとき、それを偶然や失敗としてではなく、すでに語られていた現実として受け止めるためです。ここで記憶は、信仰を支える働きを持ちます。聖霊の働きとも響き合い、言葉が後になって意味を持ち始めます。
 この箇所は、証しが成功や影響力の拡大として理解されることへの修正です。証しとは、真理にとどまることであり、その結果として生じる反応は制御できません。霊が証しし、人がそれに参与するとき、そこには必ずしも安全は保証されません。

神学的ポイント

証しは霊の働きへの参与である

 弟子の証しは独立した行為ではなく、真理の霊の証しに参与するものです。信仰の証しは神の働きと不可分です。
迫害は宗教的確信の中から生じうる

 迫害する者は自らを神に仕えていると考えます。神学的に、誤った確信は暴力を正当化する危険を持ちます。
「知らない」とは関係の欠如である
 神を知らないとは情報不足ではなく、神との実際の関係がないことを意味します。
つまずきは苦難ではなく期待の崩壊から生じる

 苦難そのものではなく、「こうなるはずだ」という前提が崩れるとき、人はつまずきます。
記憶は信仰を支える構造である

 後になって思い出すことが、出来事の意味を明らかにします。神の言葉は時間の中で理解されます。

講話

 イエスは、弟子たちに証しについて語られます。しかしそれは、成功の話ではありません。真理の霊が証しし、あなたがたも証しする。その流れの中で、すぐに迫害の話が続きます。証しは、安全な場所で行われるものではありません。
 人は、正しいことをすれば理解されると考えます。しかしイエスはそうは言われません。むしろ、追放され、命を狙われることさえあると言われます。そしてその行為は、神に仕えているという確信の中で行われることがあると語られます。ここに、信仰の難しさがあります。
 問題は「知らないこと」です。神を知らない。しかしそれは、情報が足りないという意味ではありません。神との関係がないということです。関係がないまま確信だけが強くなるとき、人は自分の行為を疑わなくなります。
 イエスは、これらを前もって語られます。それは、弟子たちがつまずかないためです。苦しみが来ること自体が問題ではありません。それによって、「なぜこうなるのか」と信仰が崩れることが問題です。あらかじめ語られていたと知るとき、その出来事は偶然ではなくなります。
 信仰は、すぐに理解されるとは限りません。むしろ誤解されることがあります。それでも証しは続きます。それは、自分の力で何かを証明することではなく、霊の働きにとどまることです。
 そして、後になって分かることがあります。あのとき語られていたことが、ここで意味を持つ。その積み重ねが、信仰を支えます。証しは、その場で結果が出ることではなく、時間の中で真理が明らかになっていく過程です。
 安全ではない場所でも、証しは止まりません。なぜなら、それは人の働きだけではなく、霊の働きでもあるからです。その中にとどまるとき、たとえ理解されなくても、真理は確かに働き続けています。

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カトリック司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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