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最初の宣教師たち

小笹山の修道院――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(50)

 その山は、すでに述べたように当時、そして今でも「東福岡の小笹」と呼ばれている丘である。そこが今から三十年前は、うっそうとした森林であったことはすでに触れた。当時は東側の低い方(市街の後方)に稲田がずっと広がっていて、田んぼの間に農家が点在しているのが見られるだけであった。

 「博多駅」を始発とする列車が、九州の西端に向かって走っていた。その線路は谷を越えて丘の下、ちょうど私たちが購入した土地の境を通っていた。そこにこの土地と同じ名前の「小笹」という駅があった。当時の列車は広い稲田の中を走っていたのだが、今は多くの家や商店、農家、工場、高層ビルが立ち並ぶ市街地を走っている。駅だけが三十年前とほとんど変わらず、当時の名残を今にとどめている。その変わっていない駅を数年前に見たとき、辺りの風景とまるで調和しない「時代後れの建物」という思いがした。(監修者注:その後、「小笹駅」のあった筑肥線は廃止され、現在は広いバス通りになっている。)

 「山の家」、「山へ行きましょう」、「山から帰りました。ただいま」。こうした言葉は、ずいぶんと以前に会員たちや志願者がよく口にしていた言葉で、それは今も時々耳にする言葉である。さて、「小笹の丘」での私たちの冒険はどのようにして始まったのだろう?

 日本では新学期は四月に始まる。後に四階建ての大きな志願院を建てることになるこの丘の上で、私たちが使徒職を始めたのは、一九五〇年の三月も末であった。購入した土地の大半は丘の上にあり、そこまで行くには当時の状態では事実上、不可能であった。低い谷の方に放置されたままの道があったが、そちらはとても危険で、とにかくどんな作業一つとっても決してたやすくはなかった。

 そこでまず、森林の伐採と建物の建設を行う会社と契約を結ぶ必要があった。私たちの目的に合った会社を探す、新しい建物を建設するためのふさわしい場所を決める、通行に支障のない道路を作るという課題があった。やがて建物の設計図と、全体の計画案が作成された。短期間のうちにこれら全ての問題を、なんとか整理することができたのである。

 最初に私たちが直面した問題は、志願院の建設予定地だった。前述した大きな計画を進める前に、九州地方でパウロ山野修道士が募集した中学生たちを収容するための家屋を、まず建てる必要があったのだ。敷地内への道路工事と相当数の子どもたちを迎える家については、多様なアイデアが入り乱れて、かなり心配した。その上、こうした作業は高低差のある険しく急峻な土地を慎重かつ丁寧に整地して、はじめて可能となるのである。

 整地の費用だけでも一千万円もかかるという。整地工事は、私たちの経済的能力ととてもアンバランスな、とても困難な財政問題となった。そこで私は個人的にアメリカ軍のある高官を訪ね、私たちが直面している困難な状況を率直に説明した。彼はすぐさま理解してくれ、何人かの兵士と、作業に必要な機械を自由に使用できるように命令を下した。

 その後、二台のブルドーザーが作業のために手配されて数週間稼働し、森林をならすという大仕事を完全に果たしてくれた。

 後の工事は建築の請負会社が引き継いだ。土の道をアスファルトで舗装し、仮住居の建設にとりかかり、次に志願院の建設に取りかかった。こうして志願院は一九五一年の半ばに、建物の骨組みが完成した。

 工事の期間中、私たちは入会した中学生のための活動を始めた。毎朝子どもたちは二キロほど離れたフランス人の宣教師が経営する中学校に通学し、授業が終わるとまた私たちの所に帰ってくる。仮住居は自由に使えるスペースこそ少なかったが、生活するのに不自由はなく、小聖堂と自習室、食堂、寝室があり、ベッドは軍隊で使っていた組み立て式のもので、いくらか不便ではあったが、空いているスペースをうまく活用することができた。

 中学生の志願者たちはこうしたすべてのことに満足し、私たちの配慮によく応えて勉強に励み、指示には素直に従い、そしていつも明るく快活であった。やがて、彼らの中から立派な司祭、修道士が生まれていった。

 志願院の建設工事は急速に進み、建物は日ごとに大きくなっていき、予定の四階に達した。それはまるで森の真ん中にそびえ立っているかのように見え、いかめしく威厳あるその姿は、周囲の情景から浮かび出た城塞のようであった。

 建設会社への支払いの期限が来たが、私たちにはお金がなかった。東京修道院に援助をお願いしたが、返事は否定的であった。なぜなら、東京ではラジオ放送局の建設費用が会の金庫をすっかり枯渇させていたからである。そのため私たちはかなりの間、志願院の工事を中断せざるを得なかった。

 ロレンツォ神父が、イタリアを経由して再びアメリカに行くために福岡を去ることになった。イタリアには一九五二年の復活祭に到着したが、彼の心は福岡の志願院の完成を見ることができなかったせいで、いささか苦しんでいた。ロレンツォ神父の後任には、アンジェロ・カステロット神父が責任者に就いた。彼はその後、土地の一部を売却して、その代金で先任者が心配していたすべての金銭的問題を解決することができた。

 カステロット神父の次にはマテオ・プラッサ神父が院長となり、福岡におけるパウロ会のすべての事業を大いに発展させた。しかし残念ながら、その活動は彼の突然の死によって打ち切られてしまった。四十歳という若さであった。(一九二四年十一月二十八日~一九六五年三月十一日)。彼は今、志願院にほど近い「小笹」の墓地に眠っている。マテオ神父は日本の地で死去した最初のイタリア人会員である。

 あの丘とその下の谷は、今では福岡市の中でも人口の密集した新しい地域へと変貌している。丘の頂、すなわち私たちの新しい志願院の背後には、旧日本軍の高射砲陣地の遺物が茂みの中にまだ残っている。福岡市当局は私たちの周辺の地域に注目し、この旧日本軍の陣地を取り壊す計画を立てた。丘の頂を削り、志願院から百メートルほどの場所に町から谷に通じる広い道路を作った。福岡志願院は今もその活動を着実に続けており、日々「善き召命」を提供し続けている。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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