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おうち黙想

第5回「復活は、灰を連れてくる」――終わらなかったものが、新しくされる―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

今回のポイント
 第5回で語られているのは、復活の捉え直しです。人が期待する復活は、失敗が帳消しになり、傷が消え、元通りになる出来事ですが、聖書が語る復活はそうではありません。復活とは、過去を消し去ることではなく、過去を引き受けたまま新しい次元に入ることです。復活したイエスが傷を残して現れたように、十字架や苦しみは否定されず、別の意味を与えられます。墓は終わりではなく、終わったと思ったものが実は終わっていなかったと知らされる通過点でした。
 復活は最初から理解できる出来事ではなく、気づかれない形で始まります。灰を通った者だけが、命を軽く扱わずに復活を生きる身体を持ちます。そして復活は完成や安息ではなく、傷を抱えたまま遣わされる出来事です。四旬節は復活祭で解決されるのではなく、灰と傷を連れたまま生き続けてよいと告げられて終わります。灰は捨てられず、神が働いた痕跡として残り、それでも人は前へと歩いていくのです。

人が期待する復活と、聖書が語る復活は違う

 「復活」と聞くと、人はつい、すべてが帳消しになる出来事を思い浮かべます。失敗はなかったことになり、傷は消え、問題は解決され、以前よりも強く、明るく、完全な状態に戻る。もしそれが復活なら、復活は「やり直し」や「挽回」に近いものになります。
 しかし、聖書が語る復活は、そのようなものではありません。復活は、過去を消し去る出来事ではなく、過去を引き受けたまま、別の次元に入る出来事です。四旬節の終わりに待っているのは、灰を振り落とした人生ではなく、灰を連れたまま立ち上がる命です。

復活したイエスは、傷を消さなかった

 復活されたイエスが弟子たちの前に現れたとき、最も印象的なのは、傷が残っていたことです。
 「あなたの指をここに入れなさい。わたしの手を見なさい」(ヨハネ20・27)。
 復活とは、十字架がなかったことになる出来事ではありません。苦しみが無意味だったと証明されることでもありません。復活とは、十字架を通ったそのままの存在が、新しい命に入ることです。だから、傷は消されませんでした。傷は、敗北の証ではなく、復活の一部として残されたのです。
 もし神が「元に戻す」方であったなら、復活したイエスは傷のない姿で現れたはずです。しかし神はそうされなかった。ここに、神の再創造の決定的な特徴があります。神は、過去を削除せず、意味を変えられます。

墓は「終わり」ではなく、「通過点」だった

 復活物語の始まりは、勝利ではありません。空の墓の前に立った人々は、戸惑いと恐れに包まれました。
 「なぜ、生きている方を死者の中に捜すのか」(ルカ24・5)。
 墓は、問題の解決地点ではありません。復活の説明が与えられる場所でもありません。墓は、「終わったと思った場所が、実は終わっていなかった」と知らされる地点です。灰になりきったと思った場所が、神の手の中にあったと、あとから分かる場所です。
 四旬節を通して灰に戻された人生は、復活祭によって突然理解できるようになるわけではありません。ただ、「終わっていなかった」と知らされるだけです。それで十分なのです。

復活の最初の証人は、理解していなかった

 復活の最初の証人たちは、復活を理解していませんでした。マグダラのマリアは、イエスを園丁だと思いました(ヨハネ20・15)。エマオへ向かう弟子たちは、復活のイエスと一緒に歩きながら、気づきませんでした(ルカ24・16)。
 復活は、最初から「分かる」出来事ではありません。気づかれない形で、すでに始まっている出来事です。理解よりも先に、同行があります。説明よりも先に、共に歩む時間があります。
 四旬節の終わりに私たちが立つのも、この地点です。分からないまま、しかし一人ではない地点です。

灰を通った者だけが、復活に立ち会う

 復活は、誰にでも同じ形で訪れるわけではありません。十字架を通らなかった者はいません。灰にならずに復活に至った者はいません。
 「もし、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになる」(ローマ6・8)。
 四旬節で灰になった経験は、復活の条件ではありません。しかし、それは復活を「理解する資格」ではなく、復活を生きる身体を形づくります。灰を知っている者だけが、命を軽く扱わないからです。

復活は、完成ではなく「派遣」である

 復活したイエスは、弟子たちを安心させて終わりませんでした。
 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)。
 復活は、休息の完成ではありません。新しい使命への派遣です。しかしそれは、以前より強くなった者への派遣ではありません。傷を抱えたままの者への派遣です。灰を知り、待つ時間を通り、元に戻れないことを受け入れた者が、そのまま遣わされます。

四旬節は、終わらない形で終わる

 四旬節は、復活祭で「解決」されるわけではありません。すべてが整うわけでも、説明がつくわけでもありません。ただ、生き続けてよいと告げられるだけです。灰を連れたままで、傷を持ったままで、生き続けてよい。
 パウロは言います。
 「この宝は土の器に納められている」(2コリント4・7)。
 宝は器を取り替えません。器の弱さごと、宝は運ばれていきます。

灰は、捨てるものではない

 復活は、灰を捨てる出来事ではありません。灰は、神が働いた痕跡として残ります。過去は消えません。しかし、もはや人を縛る力を持ちません。
 灰は、神が何をしてきたかを知る者の記憶として、静かに残ります。

ここから先は、「生きる」だけでよい

 最後に、四旬節は私たちにこう告げます。
 もう証明しなくてよい。
 もう急がなくてよい。
 もう元に戻ろうとしなくてよい。
 灰を連れて、生きてよい。
 傷を抱えたまま、歩いてよい。
 それが、聖書が語る復活です。
 それ以上でも、それ以下でもありません。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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