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伝統的釈義と現代の釈義の相克

1. フランシスコ会聖書研究所の設立と分冊による訳本刊行――伝統的釈義と現代の釈義の相克

 フランシスコ会聖書研究所が設立されたのは1956年のことですから、第二ヴァティカン公会議の開催(1962年)に12年、『啓示憲章』の発布(1965年)に9年さかのぼることになります。そのきっかけはマキシミリアン・デ・フルステンベルク大司教が教皇大使として来日したことにあります。当時の我が国には、カトリックの聖書全巻の邦訳は存在していませんでした。1955年同大使は日本の司教団の認可を得た上で、当時のフランシスコ会極東総長代理に対し、聖書研究所を設立し翻訳に着手するよう要請されました。フランシスコ会に白羽の矢が立ったのは、当時香港でフランシスコ会士たちが聖書の中国語訳に取り組み完成しつつあったことによるものと思われます。同大使が望んだことは、ピオ十二世の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』の精神に従い、「近代における聖書研究の専門的方法ならびにその成果をじゅうぶんに取りいれ、聖書を原語(ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語)から、あるいは原文の失われているものに対しては残存する最も古い訳本から、直接に翻訳すること」ならびに「すべての人に理解されるように、飾らず、明解な表現と気品ある文体」で翻訳することでした。

 そのため、フランシスコ会極東総長代理(当時はまだ日本管区は設立されておらず、十数カ国の分管区が存在したため、まとめ役として総長代理が指名されていた)は聖書学者を派遣してもらうために世界各地を回り、アメリカ合衆国、イタリア、フランス、メキシコの管区から派遣された研究者によって翻訳作業は着手されました。当然、的確な日本語で表現するための日本人の協力者の働きが重要なものとなりました。読みやすいと評価され、NHKの朗読のテキストとして創世紀と詩編が採用されたのも、これらの人々の働きの賜物と言えるでしょう。しかし、聖書研究者の適切と思われる訳語へのこだわりと適切な日本語の表現へのこだわりがうまくかみ合わなかったような箇所もあります。そのためでしょうか、バタ臭い日本語だとも批判されました。そうは言うものの、最終巻の翻訳にあたったアメリカ人のシュナイダー神父、1990年に帰天したフィナテリ神父の功績には多大なものがあり、彼らがいなければ完訳までにはさらなる歳月を要したと言えるでしょう。

 1958年に第一巻として『創世記』の刊行以後分冊の方で逐次刊行され、2002年に37巻目にあたる最終刊の『エレミヤ書』によって完結を迎えるまでに46年を要することになります。その理由として挙げられるのは、設立の数年後にローマで聖書を勉強した日本人研究者が加わるようになりましたが、前述のように外国人研究者と日本人協力者の共同作業であったこと、共同訳が企画されるとフランシス会聖書研究所のスタッフも共同訳の重要なメンバーとなったことのほかに、底本を定めてそれに基づいて翻訳するだけでなく、その底本の本文を批判研究し、最新の研究成果を踏まえ本文確定したうえで翻訳し注釈を付すことに徹したところにあったと言えましょう。

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小高 毅

1942(昭和17)年、韓国京城(現ソウル)に生まれる。上智大学大学院神学科博士課程修了。この間、ローマのアウグスティニアヌム教父研究所に留学。カトリック司祭、フランシスコ会士。

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