大学時代に法社会学という授業を受けました。本格的な講義が始まる前に先生がこうおっしゃいました。「皆さんが持っている 科学観というのは、19世紀で止まっています。ですから、この授業では最初の数回を使ってその科学観を20世紀のものにしていきます」。こうして、最初の数コマを使って、先生は不確定性原理、相対性理論、そして非ユークリッド幾何学を、数学アレルギーの集まりとも言える 法学部生にわかりやすく説明して下さいました。
プリントに三角形が描いてありました。「この三角形の内角の和は?」弁護士の卵さんたちは「180度」とすんなり答えます。次に大講義室の大きな黒板に三角形を描いてまた同じ質問をします。 これも180度です。では、この三角形を数万倍にしたらどうなるでしょう。 丁度、地球にへばりついた歪な三角形になってしまいますが、この内角の和となると、みんな口を喋んでしまいます。
こういう説明も覚えています。真っ直ぐにロケットを打ち上げます。けれども、地球は自転していますから、真っ直ぐに打ち上げたように見えても、真っ直ぐではありません。そうなると「一体、『何を基準に』『誰の目から見て』真っ直ぐなんだろう」と首をかしげてしまいます。この地球上に果たして「真っ直ぐ」なんてあるんだろうか。 当時、私に信仰はありませんでしたが、こうノートに書いたのを覚えています。「神は直線を描かない」。ところで、真っ直ぐ(直線) は、数学的に説明すると「二点間を最短距離で結ぶ線」と定義付けられますが、この世界に直線があり得ないなら、「最短」という概念も怪しくなります。
さて、3月19日に終生誓願を立て、現在はカトリック神学院において、叙階に向けた最後の準備を行っています。皆と自分の養成期の話をしますと「なんであなたの養成期間はそんなに長いのか」と呆れられます。私もそう思いますが、たしかにあの日あの時、神様が科学論を通じて私に語りかけた通りになっただけとも言えます。そんな神学校にいる人たちも、人生の紆余曲折のうちに召命を得て、その道を歩いているようです。直線なんてものは無いのですから、人間の目には遠回りのようで、神の目からすればそれが最短なのでしょう。
奇しくも、私達は大木(アルベローネ)の霊性を生きています。「曲全」(老師)という言葉が示すとおり、大木は必ずしなやかに曲がりながらその姿を全うしています。事実、創立者の人生も、曲全としたものでした。「直木は先ず伐られ」(荘子) というように、真っ直ぐな木はまず伐られる運命にあるのだとすれば、曲がりくねった人生は、神様が下さった守りであり、より多く恵みを受けて大きく育っための知恵であり、ご自分の子に対する愛の現れなのかもしれません。