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おうち黙想

第4回「灰のままで、待つ」――神の作業時間に、とどまる―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

今回のポイント
 第四回で語られているのは、「何も起こらない時間」をどう生きるか、という問いです。人は止まることに耐えられず、人生が壊れて元に戻らないと知ると、何か行動しなければと焦ります。しかし四旬節の真ん中に置かれているのは行動ではなく停滞です。聖書において「待つ」とは消極的な姿勢ではなく、見張りが朝を待つような緊張した姿勢です。荒れ野でのイスラエル、約束を受けながら待たされたアブラハムのように、神の民はいつも「途中」で止められてきました。その止められた時間こそが、信仰の中心に据えられます。
 灰のままで待つ時間が苦しいのは、神の働きが見えないからです。しかし成長は観察できず、気づいたときにはすでに起きています。祈れなくなる時間も、信仰の終わりではなく、人の祈りが尽きて神の働きが始まる時間です。何もしないことは放棄ではなく、「自分で救わない」という信仰の告白です。灰の状態は神にとって危険ではなく、むしろ守られる段階にあります。四旬節は急がなくてよい。ただ、神が働いていると信じて、その場にとどまる。それが神の作業時間に立ち会う仕方なのです。

人は、止まることに耐えられない

 人生が壊れ、元に戻らないと知ったとき、人は次に何をしようとするでしょうか。多くの場合、人は「何かしなければならない」と考え始めます。行動しなければ、信仰が止まってしまうような気がする。考え続けなければ、神を失ってしまうような気がする。沈黙は後退であり、停滞は敗北だと思ってしまう。
 しかし、四旬節の真ん中に置かれているのは、行動ではありません。停滞です。灰のままで、何も起こらない時間です。ここで多くの人が不安になります。自分は信仰を失ってしまったのではないか。神の導きから外れてしまったのではないか。しかし聖書は、この「何も起きない時間」を、信仰の空白とは呼びません。

聖書において、「待つ」は最も緊張した姿勢である

 私たちは「待つ」という言葉を、受動的な態度だと考えがちです。しかし、聖書において「待つ」とは、決して気楽な状態ではありません。むしろ、最も張りつめた姿勢です。
 詩編は言います。
 「わたしの魂は主を待ち望む。見張りが朝を待つにもまして」(詩編130・6)。
 見張りは、夜を終わらせることができません。朝を早めることもできません。ただ、来ると信じて、立ち続けます。眠ることも、立ち去ることもできません。
 灰のままで待つとは、人生の主導権を自分が握っていないと認めることです。神が動くまで、自分は動けないと受け入れることです。だからこそ、待つことは苦しいのです。

神の民は、いつも「途中」で止められてきた

 アブラハムは、約束を受けた瞬間に祝福を手に入れたわけではありません。
 「あなたの子孫は天の星のようになる」(創世記15・5)と言われながら、長い間、何も起こらない時間を過ごしました。約束は与えられましたが、実現は延期されました。
 出エジプトの民も同じです。海を渡ったあと、すぐに安定した生活が始まったわけではありません。荒れ野で四十年、完成しない時間を生きました。彼らは何度も神に不満をぶつけ、「なぜここで止められるのか」と叫びました。しかし神は、彼らを急がせませんでした。
 四旬節は、この「途中で止められる時間」を、信仰の中心に据えます。

神の作業は、人の目に見えない

 灰のままで待つ時間が苦しいのは、何が起きているのか分からないからです。変化が見えない。進展が感じられない。祈りの手応えもない。そのため、人は「神は働いていない」と結論づけてしまいます。
 しかし、パウロははっきりと言います。
 「植える者も水を注ぐ者も何者でもない。成長させてくださるのは神である」(1コリント3・7)。
 成長は、観察できません。気づいたときには、すでに起きています。
 陶工が粘土をこねるとき、外から見えるのは、形が崩れ、回され、押しつぶされている姿だけです。しかし、その見えない手の中で、器の未来は決まっていきます。四旬節の停滞は、神が何もしていない時間ではありません。神だけが働いている時間です。

祈れない時間は、祈りが終わった時間ではない

 この時期、多くの人が「祈れなくなった」と感じます。言葉が出てこない。聖書を読んでも心が動かない。神に向かって話している感じがしない。しかし、ローマ書はこう語ります。
 「わたしたちはどう祈るべきか分からないが、“霊”ご自身が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8・26)。
 祈れない時間は、信仰の終わりではありません。自分の祈りが終わり、神の祈りが始まった時間です。人の言葉が尽きたところで、神の働きが始まります。

何もしないことは、放棄ではない

 灰のままで待つことは、人生を投げ出すことではありません。それは、「自分で救わない」という、最も激しい信仰の告白です。
 出エジプト記で、民が海の前で立ち尽くしたとき、モーセは言います。
 「恐れてはならない。主がきょうあなたたちのために行われる救いを見なさい」(出エジプト14・13)。
 彼らにできることは、何もありませんでした。救いは、動いた者ではなく、立ち尽くした者に起こりました。

灰の状態は、神にとって危険ではない

 灰のままでいることは、不安です。不格好で、役に立たず、みっともない。しかし、神はその状態を嫌われません。イザヤはこう語ります。
 「葦のように傷ついたものを折ることなく、くすぶる灯心を消すことはない」(イザヤ42・3)。
 神は、完成していないものを消し去る方ではありません。むしろ、守られる方です。灰は、捨てられる段階ではなく、守られる段階にあります。

四旬節は、急がなくてよい

 四旬節の真ん中で、人生は動かなくてよい。答えは出なくてよい。方向は見えなくてよい。灰のままで、待つ。それが、神の作業時間に立ち会う唯一の仕方です。
 この回では、前に進まなくてよいのです。理解しなくてよいのです。ただ、神が働いていると信じて、そこにとどまる。それで十分です。

次に現れるのは、「傷を連れた命」

 待つ時間のあとに現れるものは、輝かしい完成形ではありません。次に来るのは、灰と傷を連れたまま立ち上がる命です。
 それが、最後の回へとつながります。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

  1. 第4回「灰のままで、待つ」――神の作業時間に、とどまる―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

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