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最初の宣教師たち

九州に志願院を準備しなさい――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(48)

 福岡は、九州という大きな島の首都である。この九州の鹿児島に一五四九年、極東におけるキリストのメッセージの勇敢なる使者として、聖フランシスコ・ザビエルが初めて上陸したのである。

 彼の宣教は今に至るまで、確実にその実を結んでいる。九州には、この偉大なイエズス会宣教師によって回心した信徒たちの子孫が今も生きていて、彼らの家庭から日本人のすばらしい司祭や修道者が多数輩出している。

 人口約百万の福岡は、黄海と日本海の間の朝鮮海峡の南岸に位置している。質の高い農業や漁業だけではなく、工業もまた非常に発達している。当時、福岡市の東側には樹木の生い茂った小高い丘があった。今、その丘(小笹)には住宅が密集していて、東側は谷の低い部分まで何十万人もの人が生活する新興住宅地となっている。

 一九四九年の夏、ドミニコ深堀仙衛門・福岡司教が東京に来られて、パウロ会員に九州で宣教してほしいとパウロ神父と私(ロレンツォ)に要請された。私たちは直ちにローマのアルベリオーネ神父に手紙を送った。創立者はすぐに返事をよこし、聖パウロ修道会の西日本における新しい事業を承認し、心からの祝福を与えた。

 間もなく私は、福岡に向けて出発した。改めて深堀司教と話しをするためと、新しく聖パウロ修道会の修道院を開くための明確な承認を同司教から得るためであった。

 深堀司教はすでに司教館からあまり遠くない広い森林を、聖パウロ修道会の新しい修道院の土地に考えておられた。それは「小笹の丘」の東斜面の土地だった。親切な深堀司教は、その土地の所有者の女性とよく相談するよう手配までしてくださった。幸い、彼女はカトリックの信徒であった。私は司教と一緒に、彼が選んだ土地を視察に行った。そこはすばらしい場所であったが、残念ながら人が通れる状態にはなかった。アカシヤや西洋さんざし、そのほか丈の低いバラ科の木々が辺り一面に生い茂り、小道に入り込むのを困難にしていた。深堀司教は司教服の上着まで脱いで、藪をかき分けてなんとか目指す地点まで上った。私の記憶に間違いがなければ、それからわずか一カ月のうちに私とアンジェロ・カステロット神父、そしてパウロ山野修道士の三人が東京から福岡に向けて出発したと思う。この旅行には、私がカリフォルニアから持ち込んだアメリカ製の自動車「フォード」を使った。パウロ神父は向こうで必要なものをすべて、自動車に積んで運んでいく許可も与えてくれた。しかし当然のことながら、後で金銭的な欠乏に迫られて、私たちはその自動車を売り払わなければならなくなったのだが……。

 日本の中心地の東京から南への自動車旅行は長いものであったが、たいした障害もなしに行われ、とても面白い出来事に遭遇したりもした。旅行中、私たちは祈りのうちに時を過ごし、楽しく談笑し、これから必ず出合うであろう困難について前もって心配することもなかった。過去において私たちを支え、励まし、力づけられた神のみ摂理は、この苦境においても私たちを見放すことはなかった。

 私たちはこうして福岡に新しい志願院を設立したが、その際、日本人会員のパウロ山野忠次郎修道士の果たした重要な貢献について沈黙することはできない。彼の働きは実に根気強いものであり、彼が福岡の志願院に導いた数十人の志願者の中から、立派な司祭あるいは修道士となった者は少なくない。初めての見も知らぬ新しい町で、自分たちの志願院を「小笹の丘」に建てるまでの間、私とアンジェロ・カステロット神父のために最初の仮住居を手配してくれたのも、このパウロ山野修道士であった。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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