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最初の宣教師たち

神父様、急ぎます!――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(30)

 王子教会の信徒の家庭には、多くの子どもたちが生まれていた。お葬式はごくわずかで、皆さんとても健康で、七十~八十歳代で元気な人も大勢いた。日本人は長寿で、高齢者たちも精神的に若くて明るく、ご近所づきあいの良さを保っていた。しかしそうは言っても、やはり病人はいる。相当に規模の大きな病院での霊的援助が、私たち聖パウロ修道会の司祭に委ねられた。その病院は私たちの担当区域ではなかったのだが、自由に出入りすることができたのである。そこは療養所で、カトリックの看護師さんたちも何人かいた。入院患者の中にも五、六人のカトリック信徒がいた。そのため私たちは簡単に病院に出入りする許可を与えられた。私たちは病人の信徒を見舞い、質の高いカトリックの宣教も行うことができた。パウロ神父はこの新しい病院司牧の務めを、私(ロレンツォ)に任せた。

 療養所は距離にして、私たちの教会から五~六キロほど離れていて、たくさんの病人が入院していた。私は週に二、三回、自転車でこの”苦しみの家”に信徒たちを見舞うために通った。すると彼らは、ほかの入院患者にもカトリックの教えを学ぶよう自分たちから勧めてくれた。こうして私は病院でも、カトリック教理の講話を行うことができるようになり、この任務は初回から私のたいへんお気に入りの仕事となった。

 「ポチ」は忠実な犬で、いつも私のお供をして病院の庭までついてきていた。そしてポチは私の自転車の番をし、私が戻ってくるのをじっと待っているのである。

 ある時、療養所の入院患者の皆さんにお話しする価値ある事件が起こった。入院している信徒の患者の近くに、歳にして五十がらみの男性がベッドに横になっていた。彼はカトリックについては、その名前の他には何一つ知らなかった。しかし、カトリックにとても強い印象を受けていたことがあった。それは宣教師たちの信徒に対する実に温かな心遣いである。この善良な男性は重病だった。それまで彼が生きてきた人生において何の不満もなかった仏教の信仰は、彼が安らかに死を迎えるためには十分ではなかったのだ。彼は私を呼びにやり、こう言った。

 「神父様、私はカトリックの信者ではありませんが、どうかお願いです! よろしければ私はカトリック信者になりたいのです。神父様、急ぎます!」。

 私は答えた。

 「カトリック信者になりたいというあなたの望みは、神様からの大きな恵みです。少しの時間、カトリックの一番大切な教えを説明しましょう。それであなたは、洗礼を受けることができます」。

 「神父様、神父様、ありがとうございます!お礼の言葉もありません……。神父様、急いでください! 私の命はもうじき終わろうとしています」。

 私は彼の言葉をさえぎって言った。

 「しっかりしてください。カトリックになって、そしてまた元気になれますよ」。

 彼は私の手を握り締め、子どものように泣いた。そして再び話し始めた。

 「神父様、私の所属するお寺の坊さんは一度も見舞いに来てくれません。私を一人ぼっちで死なせます。私はこのまま、神様の前に出るのが怖いのです。私はあわれな罪人です……」。こう言って、彼は泣きじゃくり続けた。

 田中さん(彼の名前)の中に強い求道の熱意を見た私は、一九三七年六月の初めから、彼の枕元へと通い始めた。そこで数時間、彼にカトリック信仰の基本的な真理を説明した。田中さんの生命力が、日ごとに弱まっていくのに気づいていたからである。

 ある日、彼を励ました後で、「六月二十九日の『使徒聖ペトロ、聖パウロの祝日』のころにはあなたに洗礼を授けますよ」と告げた。田中さんは受洗日については特に気にしていなかったが、洗礼を急いでくれるよう改めて私に頼んだ。

 そして、六月十二日になった。その日私は、田中さんに聖体の秘跡について説明し、心を込めて「善きカトリック信者とは苦しみを耐え忍び、善い死の準備をしなければなりません」と伝えた。田中さんは感動して涙を流し、確固とした信仰、信頼に満ちた希望、神への大いなる愛をうかがわせる言葉を私に伝えた。その時の私たちの会話は次のようなものであった。

 「神父様、できるだけ早く私もローマの教会の子どもになりたいです、ご聖体の主をいただくために……。教えてくださったとおり、朝晩マリア様に洗礼を受ける恵みを与えてくださるように祈っています。神父様、私は月末まで生きられないと思います」。

 「それでは、二十四日に洗礼を授けましょう。洗礼者ヨハネの祝日です。いいですか?」。

 「それでは遅すぎます、神父様。その前に私はきっと死ぬでしょう」。

 私はこのように毅然と死の準備ができている田中さんに感動し、洗礼と初聖体を六月十五日にすると決めた。すると彼の顔つきは晴れやかになり、ベッドの上に座って感謝し、洗礼までの残り三日間を、いっそう心の準備に努めると約束した。決めていたその日に私が田中さんのもとに行ったとき、彼の命はもう終わりに近づいていたが、その顔は輝いていて、か細い声ではあったが話すこともできた。私はすぐ彼に洗礼を授け、ご聖体を授け、終油の秘跡(病者の塗油)も授けた。病人は合掌して熱心に祈りながら、深い潜心のうちにそのすべての秘跡を受けた。感激の涙が、彼のやせこけた頬からあごに流れ落ちていた。
深く祈りに集中しているこの新受洗者をそっとしておいて、私は他の病人の所へ行き、十五分ほどして田中さんのベッドに戻った。彼は二つ重ねた枕に寄りかかってほほ笑んでいた。彼の体には力が戻ってきていて、その声は前よりもはっきり分かるようになっていた。彼は私の右手を取り、その手に何度も接吻し、感謝をし続けた。帰るとき、私は彼に言った。

 「しっかりしなさい。明日もまた会いに来ますよ」。

 「神父様、どうぞ安心ください。ご覧のとおりです。今、私は主を心にいただきました。もう十分です。もう心安らかに死ねます。天国からいつも神父様のためにお祈りしますね。明日あなたがお見えになったときには、私はもう死んでいることでしょう。どうかもう一度、私を祝福してください。さようなら!」。

 その日の夜、彼は入院している信徒の患者を呼んできてもらって、こう言った。

 「明朝、あなたが私のベッドの所に来たとき、私が死んでいるのを見るでしょう。私の言うことを、どうかよく聞いてください。私の公教要理の本、祈祷書、ロザリオ、福音書を持って行って、みんな神父様に渡してください。これらの尊い物によく気をつけてください。看護師たちが知らないで、これを捨ててしまわないように。彼女たちはカトリックではないし、自分たちがしていることが分からないのですから。それから、神父様に私に代わって感謝してください。私はこれから行こうとしている天国から、いつも神父様のためにお祈りしていますと伝えてください。私はまたあなたのために、そして他の信者の皆さんのため、そしてすべての日本人のために祈ります。さようなら!」。

 その信徒の患者はこれを注意深く聞き、そしてたいへん感動した。そして田中さんに挨拶をして、悲しい心を抱いてその場を立ち去った。
夜更けに、田中さんは昏睡状態に陥った。夜勤の看護師は、就寝中のカトリック信徒の看護師の家にすぐ電話した。彼女はただちに駆けつけ、臨終の田中さんのベッドの傍らにひざまずき、「イエス、マリア、ヨセフのみ名」を唱えて祈るように勧めた。田中さんが息を引き取ったのは午前三時であった。友人のカトリック信徒も来て、看護師と一緒に遺体の身繕いをし、胸の上に十字架を置いて、その指を組み合わせた。
私も彼のような最期を迎えたいものだと、心から願っている。「さようなら、田中さん!」。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

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