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カトリック入門

「カトリック入門」 第82回 津和野・乙女峠【動画で学ぶ】

序)1867年「浦上四番崩れ」に端を発する弾圧により、1868年と1870年の二回にわたって、約3400名の浦上キリシタンが西日本の20藩(22箇所)に流配されました。津和野では37名が亡くなり、証し人として列聖調査が行われています。(「家庭の友」5月号の白浜満司教様と山根敏身神父様の記事を参考にします。)

1 津和野への配流
*津和野には153名の潜伏キリシタンが配流され、廃寺となっていた光琳寺跡に収容しました。
*この津和野藩には、信徒発見当時、浦上でただ一人の水方であった又一をはじめ、国太郎、友八、和三郎、高木仙右衛門、守山甚三郎などの信徒のリーダー格が送られてきました。説諭による改宗を主張した津和野藩でしたが、説得もむなしく、堅固な信仰を表明する彼らを次第に過酷な心身への拷問・虐待へと変えていきました。布団もなく、薄い衣一枚で、冬の凍り付くような板の間に「筵(むしろ)」を着、抱き合って寝る。食料は一日三合、それに塩と水が少々、野菜はなし。冬の時期には津和野の極寒の中、池に沈められながら迫害を耐え、どのようにして信仰を貫いたのでしょうか。

2 殉教者たちの思い
*三尺牢に最初に入れられ、殉教した和三郎は、主のご受難の金曜日が来るたびに、「今日もまたデウス様は呼び取ってくださらぬのでしょうか」と、永眠の日を待ち望んでいました。
*リーダー格の高木仙右衛門は、「イエス様のご苦難を思いなさい」と勧め、仲間を慰めました。
*守山甚三郎も「男は聖パウロを、女は聖アグネスを手本として辛抱せよ」と書き残しています。
*14歳の祐次郎少年の話
 厳しい拷問に14日間耐え、姉松のもとに返された祐次郎少年は、
 「八日目には、もうとても耐えきれぬ。竹縁とさし向かいになっている屋根の上を見ると、一羽の雀が飯粒を含んできて、小雀の口に入れてやる。それを見て私はすぐイエス様、マリア様のことを思い出しました。雀でもわが子を大切に養育してやる。まして、私がこの竹縁で責められるのを天からご覧になっては、より以上に可愛く思ってくださらぬはずがない。このまま死んだら、パライソへ行って天主様からあついご褒美をいただくこともできる。
*安太郎の話
 三尺牢に閉じ込められた安太郎の話にも、神様の慈しみを覚え、慰められます。
 三尺牢に入れられた安太郎を。仙右衛門や守山甚三郎が抜け穴を潜って慰めに行きました
 「最期の間際に、ただ一人でさぞ寂しいでしょう」と仙右衛門が慰めると、安太郎は「少しも寂しくはありません。毎夜、四つ時(十時)から夜明けまで、きれいな十七、八くらいの、ちょうど聖マリア様のご絵に見るようなご婦人が、頭の上に御現れてくださいます。定めし聖マリア様であろうと私は信じています。そして非常によい勧告をして慰めてくださるのです」と答えています。自分の食事を減らしても、同心の友を助けた安太郎は、聖母マリアへの信心も深い方でした。この出来事はいつくしみ深い聖母の計らいを信じています。

3 信教の自由
*明治政府は、キリシタン迫害について諸外国から批判され、信教の自由へと方向転換しました。ついに、キリスト教禁止の高札が撤廃され(1873年)、流配者たちは故郷、浦上に帰ることになりました。
*大仏(おさらぎ)次郎氏は、「天皇の世紀」の中で次のように記しています。
 「進歩的な維新史家も意外にこの問題を取り上げないし、浦上の農民が一人『人間』の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しく抵抗を貫いた点であった。権利という理念がまだ人々にはない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身にあたるものであった。」
 時の権力者の迫害に耐え、信仰者としてまた人間として何が大切であるかを教えてくれたキリシタン。

*他には、金沢・卯辰山の浦上キリシタンがいる。

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