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これってどんな種?

つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

 ことわざの中に「見ざる、言わざる、聞かざる」という言葉があります。この言葉を聞くとき、自分の保身の為に「何も見ていません、言っていません、聞いていません」というような意味で使っています。しかし、本来は「悪いものを見ません、悪いことを言いません、悪いことを聞きません」という自分の「目、耳、口」を通して「悪いこと」(誘惑)から守るという意味のようです。

 例えば、目から入ってくる誘惑を遠ざけることによって私たちを悪への傾きから守ることができますし、耳から入ってくる人の悪口や噂などによって起こる心の揺れを抑えることができます。そして、口を慎むことで、悪口や暴言を抑え、人を傷つけることから守ることができるのです。ちなみに4番目に「せざる」というのがあるのですが、それは「節度ない誘惑」から守ることのようです。

 きょうのみことばは、イエス様が「ご自分に反対しない人たち」のことと、「誘惑についての警告」について話されている場面です。みことばは「ヨハネはイエスに言った『先生、お名前を使って悪霊を追い出している人を見ました。その人はわたしたちの仲間ではないので、やめさせようとしました』」というみ言葉から始まっています。イエス様の素晴らしい教えや奇跡は多くの人に知れ渡っていました。ですから、イエス様の所へ人々が集い癒してもらったり、教えを聞いて満足したりする人が後を絶たなかったのです。さらにただ、癒していただくだけではなく、イエス様の魅力に惹かれて率先的に自分たちも、困っている人、苦しんでいる人を癒したいと思う人たちが出てきたのでしょう。

 弟子たちは、そのような自分たちの仲間ではない人たちが、イエス様の名前を使って人々の悪霊を追い出していることに怒りを覚え、「けしからん人だ」と思ったののかもしれません。弟子たちは、イエス様の弟子ということを自負していましたし、特権意識を持っていたのです。私たちの生活の中にもいろいろなグループがあってお互いに励ますのではなく、「自分たちが正しい、一番だ」と思って他のグループを下に見たり、争ったりすることがあるのではないでしょうか。

 イエス様は、そのようなヨハネに対して「やめさせてはならない。わたしの名によって奇跡を行いながら、すぐにわたしをののしる者はいない。」と言われます。この「名」というのは、私たちが使う「名前」という意味だけではなく、その人の全体を表すもので「人格」をも含まれています。ですから、「イエスの【名】を使って」ということは、「イエス様のすべてを使って」という意味になります。

 イエス様は、ご自分の弟子たち以外の人たちが困っている人、苦しんでいる人を癒していることに対して、「おおいにしてください」と思っておられたのです。民数記の中でモーセがヨシュアに対して「お前は、わたしのためを思って妬み心を起こしているのか。主の民がみな預言者となり、主がご自分の霊を彼らの上に与えられるとよいのに」(民数記11・29)と諭す場面があります。ついつい、私たちは、【自分たちだけが】という意識を持ちがちですが、それぞれの行いが【善い】ことであれば、誰が行っても良いし、むしろ、多くの人が行うことによっておん父の愛が広まることになるのです。

 イエス様は、「……あなた方がメシアに従う者だからというので、あなた方に一杯の水を飲ませる人は、決してその報いを失うことはない」と言われます。これは、実際に「水を飲ませる」というだけではなく、「助ける」「応援をする」「労わる」という意味でもあるのではないでしょうか。イエス様は弟子たちだけではなく、そのような協力者に対してもアガペの愛をお与えになられるのです。

 イエス様は、「わたしを信じるこの小さな者の一人をつまずかせる人は、その首にろばの碾(ひ)き臼をはめられ、海に投げ入れられる方がましである」と言われます。イエス様が言われる「小さな者」というのは、弱い立場にある人たちのことを意味していますが、イエス様の弟子たちや、協力者たちのことも指しているようです。当時の社会ではまだイエス様を信じる人たちは少数派だったのです。それで、彼らに対してやっかみや誹謗などで彼らを【つまずかせる】人に対しての警告であり、弟子たちや協力者を守る教えでもあるのです。

 さらにイエス様は、「もし一方の手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。……」と言われた後、同じように「足、目」が「つまずかせるなら」という厳しい警告を弟子たちに伝えます。イエス様は、「手」「足」「目」が誘惑に陥りやすい部分ということをご存知でした。イエス様は、弟子たちを外からの【つまずき】から守ることを教えられた後に、今度は弟子たち自身を【つまずき(誘惑)】から守るために、あえて厳しい言葉で注意を促します。

 イエス様は、弱くすぐに罪を犯してしまう私たちのことをご存知なのです。それで、イエス様は【アガペの愛】を持って私たちを愛し守ってくださいます。私たちは、このような誘惑に陥らないように慎みながらイエス様の弟子として歩むことができたら良いですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

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