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これってどんな種?

狭い門という種 年間第21主日(ルカ13・22〜30)

 千利休の茶室の入り口は、とても狭く身をかがめなければ入れないし、武士が刀を刺して入ることはできません。それは、抹茶を点てるときは、武士も商人もなく皆平等という意味もあり、遜った姿勢でお茶をいただくという意味があるようです。

 きょうのみことばは、イエス様が天の宴の席に着くことができる人は、どのような人かを話される場面です。イエス様は、町々や村々を通って人々に教えながらエルサレムへの旅を続けておられます。イエス様は、ガリラヤから意を決して、エルサレムへと向かわれますが(ルカ9・51)、まだまだ人々に教えなければならないことが山ほどあったのでしょう。イエス様は、一人でも多くの人が、【天の宴】に入っておん父と一緒に食卓を囲むことを望んでおられました。

 きっとそのようなお話に感銘を受けた人々の一人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」とイエス様に質問をします。今の時代もイエス様の時代でも【救い】ということへの望みは、変わらないものなのです。特に死んだ後の永遠の命への望みは、私たちの最優先課題と言ってもいいでしょう。ある神父様が「永遠の命とは、その瞬間がいつまでも続くことです」と話されていました。このように考えますと、【永遠の命】というのは、私たちの日々の生活の延長の状態と言えます。私たちの今の心の状態が【天の国】の状態でしたら、亡くなった後も【天の宴】に入ることができるのではないでしょうか。

 イエス様は、「狭い門から入るように努めなさい。」と言われます。この【狭い門】から入るというのは、どのようなことなのでしょうか。私たちは、この言葉を聞くとき、倍率が高い有名大学や会社に入るときや、成功することが難しいような物事に挑むときに「それは狭い門から入るようなこと」と言います。しかし、イエス様が言われる【狭い門】というのは、このような意味ではないようです。

 イエス様は「あなた方に言っておく。多くの人は、入ろうとしても入られないからである」と言われます。イエス様はおん父から私たちの罪を贖うために、また、多くの病人や悪霊に憑かれた人を癒やされ、おん父のみことばを伝えるためにこの世に来られました。それは、一人でも多くの人が回心しておん父のもとへ戻ることができるためでした。しかし、イエス様は「あなた方に言っておく。多くの人は、入ろうとしても入られないからである」と厳しい言葉で、人々に伝えられます。イエス様は「【狭い門】から入るということは、今のあなた方の心の状態ではいくら救われようと思っても入れませんよ」と言われているようです。

 イエス様は、ユダヤ人たちの選民意識が強いあまり、「自分たちは、救われて当然だ」と思っていた傲慢な心を指摘されたようです。イエス様に付いて行った人々の中には、「神よ、わたしがほかの人たちのように、略奪する者でも不正な者でも、……またこの徴税人のような者でもないことをあなたに感謝します。……わたしは週に2度断食し、全収入の10分の1を納めています」(ルカ18・11〜12)と言ったファリサイ派の人のように、毎日決められた律法を守っていたのでしょう。ですから、酷い罪を犯したこともなく、どちらかといえば真面目に生活をしていた人たちだったと思います。

 イエス様は、それでも彼らに「多くの人は、入ろうとしても入られないからである」と言われた後に、門から締め出された人たちの譬え話をされます。彼らは、主人と一緒に食事をしたり、大通りで主人の教えを聞いたりしていた人たちでした。ですから彼らは、自分たちは主人と親しい仲だと思っていたのです。しかし、主人は彼らに対して「お前たちが何者か知らない。悪を行うものたち、一人残らず、わたしのもとから去れ」と厳しい言葉をかけられます。彼らは、普通の人たちで特別悪いことをした人たちではありませんでした。しかし、この主人は、「悪を行う者たち」と言われます。

 では、どこが「悪を行う者」となったのでしょう。それは、一番大切な【愛】がなかったのではないでしょうか。私はある神父様から「罪とは『愛の欠如』なのです」と聞いたことがあります。もしそうであるとしたら、イエス様が言われた「悪を行う者」というのは、人々への愛がなかったのではないでしょうか。イエス様は、「アブラハム、イサク、ヤコブ、また預言者たちが神の国に入っているのに……」と言われます。彼らは、おん父のみ旨に忠実に生活をし、おん父の愛に感謝し、それを伝えた人たちでした。決して奢ることなく、いつも謙遜な生き方をしていました。ですから、神の国に入ることができたのです。

 イエス様は、「東から西から……人が来て、食事の席に着く」と言われます。彼らは、ユダヤ人が軽蔑している異邦人のことを指しています。イエス様は、自分たちが救われて当然だと慢心しているユダヤ人よりも、自分たちは罪人だと思っている異邦人たちが先に神の国の食卓に着く、と言われているようです。【狭い門】から入るということは、いつも謙遜な心で、日々の生活の中で、イエス様が、「持ち物を売って、施しなさい」(ルカ12・33)と言われたように、アガペの愛で人々に奉仕することができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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