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カトリック入門

「カトリック入門」 第75回 西坂の殉教者・金鍔次兵衛【動画で学ぶ】

序)彼は神出鬼没。人々の意表をつく行動に、「魔法を使う宣教師」と言われたりします。

1 生い立ち
*次兵衛は1600年頃、大村に生まれました。父はレオ小右衛門、母はクララおきあ。信仰深い家庭に育てられ、次兵衛の信仰が養われました。後に彼の両親は殉教したと言われます。
*わずか6歳で有馬のセミナリオに入学し、イエズス会の同宿となります。1614年、江戸幕府がキリシタン禁令を全国に発布し、彼はマカオに追放され、マカオのセミナリオで学びます。ところが日本人の学生に対する偏見などでセミナリオは閉鎖されてしまいました。20歳になった次兵衛は日本に戻り、伝道師として信徒たちを助けました。迫害下にあって信徒たちを最も慰めたのは秘跡でした。それを実感した次兵衛は司祭への道を希望し、1622年にマニラへと旅立ち、アウグスチノ会に入会します。この時代はまだ、ポルトガル船が貿易のために往来し、マニラへ行くことは可能でした。1639年になると、ポルトガル船の来航は禁じられてしまいます。
*1628年、フィリピンのセブ島で司祭に叙階され、帰国したいと切に願いました。しかし、帰国の許可はなかなか長上から出ませんでした。

2 司祭としての活動
*1631年、次兵衛はマニラに寄港した日本人船長の好意で乗船し、帰国に成功します。侍になりすまし、9年ぶりの帰郷でした。
*1632年、徳川秀忠が亡くなり、三代将軍家光の時代になると、迫害が一段と厳しくなっていきます。それにもめげず彼は昼夜を問わず信徒のために奔走しました。昼間は長崎奉行の馬丁(ばてい)になりすまして桜町牢屋を訪れ、雲仙で拷問を受け、それに耐えてこの牢屋に捕らえられていたグティエレス神父、石田神父などを訪ね、励まします。また夜になると隠れ家で信徒にゆるしの秘跡を授けたり、ミサをささげたりしました。迫害によって心身ともに疲労しきった信徒たちはどれほど慰められたことでしょう。不眠不休で活動し、信徒を慰める次兵衛。もっぱら長崎でも有名になり、ある書物には、「彼者ハ魔法ヲ覚シニヤ」と記されています。勇気があり、大胆で、知的で、実行力のある司祭でした。迫害が厳しくなっていく時代にあって、信仰を続ける人、捨てる人など実にさまざまでした。失望しかけている世相にあって、次兵衛は信徒たちに勇気を与えていく司祭です。彼の行動によって、転んだ人たちもたくさん立ち返ったと言います。

3 捜索
*長崎の奉行所は、取り締まりを厳しくしても信徒たちが信仰を捨てないだけでなく、命令に従わないことに不信を抱き、宣教師の潜伏に気づきます。こうして今まで以上に厳しい探索が始まり、危険を感じた次兵衛は、馬丁の仕事をやめてすがたをくらまし、一方、奉行所は人相書きを作成して、指名手配を行います。
*1635年、次兵衛が戸根の山中に隠れているという情報が長崎奉行所に入り、奉行は平戸、島原、佐賀、大村の役人たちに命じて、西彼杵(そのぎ)半島の山狩りを行います。一人一歩の間隔で列を組み、山を越え、谷を通り、すき間もないほどの態勢で捜索します。(山奥には彼が潜んでいたと言われる次兵衛岩という洞窟、また長崎の戸町(とまち)付近には「金鍔谷」と呼んでいる場所が今でも残っています。)こうした捜索にもかかわらず、次兵衛は江戸に現れ、家光の小姓たちに宣教していました。彼ら数名がキリシタンになり、それが分かって彼らは処刑されました。激怒した家光は、次兵衛の即刻逮捕の命令が下されます。
*次兵衛の捜索にあたり、奉行所は信徒を逮捕して彼の居場所を問いただそうとしましたが、彼らはいっさい白状せず、かえって殉教していきました。次兵衛は信徒たちを大事にすると同様に、信徒たちも司祭を大事にし、司祭への愛のために命をもささげました。まさに司祭と信徒の両方が、その当時、教会の共同体として生き生きとしていたことが分かります。

4 殉教
*1633年11月1日、次兵衛は長崎の片淵でついに捕らえられてしまいました。奉行所の役人は彼が神父だと分からず、名を尋ねた時、「トマス・デ・サン・アウグスチノ修道士、名は次兵衛、聖アウグスチノ会の神父である」と答えたので、役人たちは非常に驚き、密告者に賞金として銀の棒300本を与えました。役人たちは、彼が魔法で逃げないように厳重に縛ったと言います。
*彼に対する拷問は想像を絶するものでした。一年間の獄舎生活。ついに1637年8月21日、最初の穴吊りが三日間に及んで行われ、気を失ったまま牢に戻されました。11月6日、再び穴に吊るされると、衰弱していた次兵衛は息を引き取り、信仰を証しました。37歳でした。

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