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これってどんな種?

まず座るという種 年間第23主日(ルカ14・25〜33)

 以前、友人から「弁護士や医師は、勉強をして国家試験に合格すればなれるけど、司祭や修道者は、勉強や資格だけでなれるものではないですよね」と言われたことがあります。確かに、司祭、修道者になるための資格はありませんが、条件はあるかもしれません。それは、イエス様に従って行こうという気持ちと、独身であるということです。

 きょうのみことばは、イエス様がご自分の後について来た大勢の群衆に【弟子としての条件】を伝える場面です。イエス様は、エルサレムに向かう中で人々を癒し、教え、ファリサイ派の指導者の食事会にも招かれました。人々は、そのイエス様に興味を持ち、弟子になりたいと思ったのではないでしょうか。彼らの中には、イエス様をローマの支配から救うメシアとして新たな王にしようと思っている人、癒され、教えに感銘を受けてついてきた人、イエス様について行くことで、自分の地位を高めようと思っていた人がいたことでしょう。

 イエス様は、そのようなさまざまな思いを抱いてご自分について来た人たちに、【振り向かれ】「私のもとに来ても、自分の父や母、妻や子、兄弟や姉妹、さらに自分の命までも憎まない者は、誰もわたしの弟子となることはできない」と言われます。イエス様は、受難と死そして復活へと向かう【歩み】の途中に、いろいろと考えられる中で、ご自分について来ている人のことも考えていたのではいでしょうか。イエス様は、大切なエルサレムへの旅の途中で足を止められ、群衆に向かって話されたのでした。イエス様は、彼らに対して「あなたたちは、どのような気持ちで私について来ているのか」と彼らに問い直させるために【振り向かれて】、かなり厳しい話をされたのです。

 イエス様は、いつも「愛しなさい」と言われておられるのに、ここでは【憎まない者は】と言われています。私たちは、ここだけ聞くと「イエス様はなんてことを言われているのだろう」と思ってしまいますが、この【憎まない者】とは、「私より、家族や自分を愛する者」という意味のようです。イエス様は、ご自分の弟子になることは、たとえ、自分の命、家族との絆を犠牲することもありますよと、伝えられているのではないでしょうか(ルカ9・57〜62参照)。

 さらに、イエス様は、「自分の十字架を担って、わたしの後について来るものでなければ、わたしの弟子になることはできない」と言われます。イエス様は、まず、「家族や自分よりもわたしを愛しなさい」と言われ、「自分の十字架を担ってついて来なさい」と言われ、このことが弟子となるための【条件】だとはっきり言われます。イエス様は、以前にも「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。……わたしのために自分の命を失う者は、それを救う」(ルカ9・23〜24)と言われています。

 では、【自分の十字架】とは、どのようなことなのでしょう。それは、私の良いところ、また、あまり人に見せたくはないところも含めて、「素の私のまま、私のありのままの姿でイエス様に従う」ことなのかもしれません。それは、「弱くて欠点だらけの私の【今】を認めて」イエス様に従うことと言ってもいいでしょう。さらに、相手のことも素直に認め、受け入れるということもあるのではないでしょうか。イエス様は、私たちのこれらの十字架を一緒に担ってくださるお方です。ここに、イエス様にお委ねすることが大切になってくるのです。

 イエス様は、「塔を建てようとする人」と「戦をする王」の喩え話をされます。塔を建てる時はそれなりの見積もりを立て、自分の財産で賄うことができるかを考えます。しかし、この人は、「そうしないで」土台を据えただけで完成できずに終わってしまいます。彼は、経費を計算することを【怠った】のでした。彼は、イエス様の弟子になるために必要な「自分を見つめる」ということを【怠って】しまったのです。

 しかし、「戦いをする王」は、「もしできないとわかれば」とありますように、自分を見つめ、民や部下の命を思い進撃してくる王に和を講じる使者を遣わします。「和を講じる」ということは、相手の王の条件を全てのむということです。

 この二つの喩えに共通することは【まず座って】ということです。この意味は、いろいろなことに気を散らすのではなく、「全てを脇に置いて、目の前のことだけに集中する」ということのようです。

 イエス様は、最後に「一切の持ち物を捨てる者でなければ、あなた方は誰も、わたしの弟子になることはできない」と言われます。このことは、【まず座って】ということ繋がることでしょう。きょうのみことばは、自己への執着、時には家族への思い、プライドなどを捨てて、【イエス様に従うという覚悟】がなければ弟子になることができない、と伝えているのではないでしょうか。この【捨てる】というのは、自分の時間、能力、時には物質的なものを相手(イエス様)のために使うということです。私たちは、洗礼の恵みをいただき、イエス様について行こうと決心しました。今一度「まず座って」私の今を振り返ってみる【時】を持てればいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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