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これってどんな種?

福音の喜びを伝えるという種 待降節第3主日(マタイ11・2〜11)

 ある方から、「キリスト教の方は、クリスマスって何か特別なことをされるのですか。何か特別なミサがあるのですか」と尋ねられたことがあります。この時期は、信仰を持っている人よりも、そうでない人の方がクリスマスを待ち望んでいるようで、イルミネーションやクリスマスソングが流れ、町中がクリスマス一色で賑わっている感じを受けます。では、私たちは、どのような気持ちでイエス様のご誕生を待っているでしょうか。私たちにとってクリスマスってどのようなものなのでしょう。改めて振り返ってみてもいいのかも知れません。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちをイエス様の所に遣わして、イエス様が本当のメシアであるかどうかを尋ねさせる場面と、イエス様が洗礼者ヨハネこそご自分をメシアだと伝えた偉大な預言者の一人だと賞賛される場面です。

 洗礼者ヨハネは、ヘロデが兄弟の妻を自分の妻にしたことを指摘したことから、ヘロデによって投獄されていました(マタイ14・1〜3参照)。そのため、洗礼者ヨハネは、イエス様が実際の宣教活動の場面を見ることができませんでしたが、イエス様の噂は耳にしていたようです。その噂は、洗礼者ヨハネが思い描いていた【メシア像】とかなり違っていたようです。洗礼者ヨハネは、「斧はすでに木の根元に置かれている。だから善い実を結ばない木はすべて切り倒され、火に投げ入れられる。」(マタイ3・10)とありますように、メシアは、実を結ばない人を裁き、回心させておん父の方に導く方と思っていたのかもしれません。もしかしたら、イエス様の弟子たちやイスラエルの人々のように、メシアとして自分たちの国を治める王と考えていたのかもしれません。

 洗礼者ヨハネは、イエス様こそ「聖霊と火で、洗礼を授ける方」(マタイ3・11)であり、「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきです。」(マタイ3・14)とありますように、イエス様が【メシア】だと信じていました。しかし、洗礼者ヨハネは【自分】が思い描いていたように、イスラエルの人々の回心者が増えるわけでもなく、政治的にも変化がないことにもどかしい思いが募っていたのでしょう。それで、彼は自分の弟子たちをイエス様の所に遣わして「来るべき方はあなたですか。それとも、他の人を待つべきでしょうか」と尋ねさせたのです。

 イエス様は、洗礼者ヨハネの弟子たちに「帰って、あなた方が見たり聞いたりしたことを、ヨハネに告げなさい。目の見えない人は見え、……貧しい人は福音を告げられている。」と答えられます。イエス様は、「わたしこそがあなたが思っている『来るべき方』だ」と言われず、まず、「あなた方が見たり聞いたりしたことを、ヨハネに告げなさい。……」と答えられます。イエス様は、洗礼者ヨハネの弟子たちに「自分たちの【目】で見たこと、【耳】で聞いたことをそのままヨハネに伝えなさい」と言われているようです。このことは、【メシア像】を頭で考えるのではなく、弟子たちにご自分が行っていることを体験し感じたことをヨハネに伝えなさい、ということではないでしょうか。

 イエス様は、「目の見えない人は見え、……」というイザヤ書からご自分が行っていることをヨハネの弟子たちに伝えます。ヨハネの弟子たちはイエス様が言われた通りに、人々が癒やされていく様を実際に目にし、癒やされた人の喜びの声を聞いて喜びに満たされてヨハネの所に帰って行ったことでしょう。

 イエス様は、洗礼者ヨハネの弟子たちが立ち去った後、群衆に対して「あなた方は何を見に荒れ野へ行ったのか。……預言者を見るためか。そのとおりである。あなた方に言っておく。彼は預言者に勝るものである。……」と言われます。イエス様は、人々が洗礼者ヨハネの所に行って「罪を告白し、洗礼を受けた」ことをご存知でしたし、ご自身も洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられています(マタイ3・1〜17参照)。ですからイエス様は「荒れ野に何を見に行ったのか。」と彼らに言われ、彼らが洗礼者ヨハネをエリアの再来と思っていたように、彼こそ【メシア】の到来を伝える【預言者(エリア)】であると言われます(マタイ11・14参照)。

 イエス様は、続けて「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」と言われます。イエス様は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちをご自分の所に遣わして尋ねさせたことに対して「わたしにつまずかない者は幸いである」と言っています。この「つまずく」というのは、自分の考え、思いと違う時に起こります。残念ながら洗礼者ヨハネは、【自分】の思いで【メシア像】を抱いていたので、イエス様の宣教の仕方に【つまずいて】しまったのです。

 イエス様は、真からご自分を信じることができなかったヨハネに対して偉大な預言者であるけれども、「天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」と言われたのではないでしょうか。私たちは、イエス様の声を聞き、触れ、感じながら癒やされ、天の国の平安を体験しています。私たちは、改めてイエス様から頂いた【福音の喜び】を感じ、その喜びを周りの人に伝えることでご降誕の準備ができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  2. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  3. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

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