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そよかぜカレンダー

主の誕生

 今年もクリスマスがやって来ました。私たちのために神の子が人となられたこと、救い主が生まれたことを教会は喜び祝います。イルミネーションによる飾りつけ、もみの木、馬小屋、クリスマス劇……、そして何よりも、クリスマスのミサは教会がいつも以上に人であふれます。

 ただ、イエスが生まれたそのときから人びとはクリスマスの喜びに浸っていたかというと、そうではありません。ルカによる福音書を読んでみると、確かに天では救い主の誕生を祝って喜びが沸き上がっています。主の栄光が周りを明るく照らし出し、天の大軍が神を賛美して高らかに声を上げています。しかし、天におけるにぎやかさとは対照的に、地上はひっそりと静まり返っています。救い主が生まれたというのに、人びとはだれも気づきません。かろうじて天使の知らせを受けた羊飼いたちだけがイエスを見に行きます。王や貴族の家に生まれた幼子であれば、盛大な祝宴が開かれたことでしょう。しかし、イエスは名もない大工の家に生まれました。しかも、住民登録のための旅の途中で、自分の家から遠く離れた所で生まれましたから、通常なら祝ってくれるはずの人たちも周りにはいません。さらには、宿屋に泊まる場所がなかったため、飼い葉桶に寝かせられます。まるで、神ご自身が救い主の誕生を隠そうとなさっているかのようです。天使たちの導きがなければ、羊飼いたちも気づかず、それこそ本当にだれも気づかなかったでしょうから。

 人びとがイエスの誕生の出来事の意味とそのすばらしさに気づいてクリスマスを祝い始めるのは、ずっと後になってからのことです。そのためには、死んで復活されたイエスに出会い、この方こそ本当に救い主であるということに気づく必要がありました。こうして、あのとき(イエスの誕生のとき)、自分たちは気づかなかったけれども、すでに神が救いの計画を実現し始めておられたのだということを人びとは理解したのです。

 そこで、私たちの日々の生活を振り返ってみましょう。私たちは、日常の中で働かれる神の業をなかなか感じ取ることができません。キリストによって救われたと言いますが、この救いを実感することも簡単なことではありません。どうやら、神の業はそのときはほとんど気づくことなく、後になって振り返ってみて、「あのとき、確かに神が私を支えてくれた。私の中で救いの業を実現してくれた」と理解する場合がほとんどのようです。神は、救い主イエスの誕生のときにそうなさったように、隠れた方法で働かれるからです。

 ルカによる福音書をもう少し読み進めていくと、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2章19節)という記述にぶつかります。私たちは、確かに今自分の周りで行われている神の救いの業になかなか気づくことができません。しかし、マリアのように、すべてを心に納めて思い巡らすことはできます。そうするうちに、後になって、神が行われたことのすばらしさに気づき、そのことのゆえに神に感謝し、神を賛美することができるのではないかと思います。

 教会は伝統的に、この「心に納めて思い巡らす」時間を、糾明、黙想、念祷などと呼び、とても大切にしてきました。また、朝昼夕の三回、鳴り響く教会の鐘の音に合わせて、仕事の手を休め、お告げの祈りを唱えながら、一日の働きを心に納めて、そこに働かれた神の業を思い巡らすように勧めてきました。社会が忙しくなってしまったためでしょうか、今、私たちはあまりこのような時間を大切にしません。こうして、私たちは自分の中で、自分の周りで実現している神のすばらしい救いの業にほとんどの場合気づかずに過ごしてしまっています。

 クリスマスを祝うということは、私たちがそのときは気づかずに過ごしてしまった救い主の誕生という神の偉大な業を思い巡らし、神に賛美と感謝を捧げることです。しかも、神は今も私たちの中で働かれているはずですから、この機会にちょっと立ち止まって(願わくは、この機会だけでなく毎日少しずつ)自分自身の歩みを振り返り、思い巡らしてみましょう。きっと、これまで気づかなかった、しかし自分の中で行われた神の救いの業に気づくことができると思います。そして、自然に神への賛美と感謝があふれ出てくることと思います。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2章14節)

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