私たちは、この世に生を受けた時から何がしらの【使命】を頂いています。さらにこの【使命】は、その人の【召命】と深く繋がっているのではないでしょうか。私たちがその【使命】を忠実に果たす時には、いつも三位一体の神様の恵み、助けが与えられるのです。私たちは、そのことを信頼しながら日々の生活を歩んで行けたらいいですね。
きょうのみことばは、「不正な管理人」の喩えの場面です。このみことばの前には、「3つの憐れみの喩え」である『見失った羊』、『なくした銀貨』そして『放蕩息子』の喩えがあります。この喩えは、私たちがたとえおん父の道からそれたとしても、回心してご自分の所に歩んできた人をおん父の憐れみによって救ってくださるという譬え話であります。イエス様は、この喩えを弟子たちやご自分の所に集まってきた人々に対して話されました。もちろん、その中には、人々から疎んじられている徴税人や弱い立場の人たちもいたでしょうし、ファリサイ派の人々や律法学者たちもいたことでしょう。イエス様は、そのような人々に対してきょうのみことばを話されたのです。
みことばは「イエスはまた、弟子たちに仰せになった、『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を使い込んでいると、告げ口するものがあった。』」というみ言葉から始まっています。この中の「ある金持ち」というのは、おん父のことであり、「管理人」は私たち一人ひとりのことではないでしょうか。そして、「主人の財産を使い込んでいる」というのは、私たちがおん父の道からそれて、せっかく頂いた【恵み】を無駄に使ってしまっている状態と考えていいのかもしれません。
主人は、この管理人を呼んで「……管理の明細を提出してもらおう。もうお前を管理人しておくわけにはいかない」と言います。この言葉は、とても厳しい言葉ですし、裁きの言葉のように聞こえますが、そうではなく、主人であるおん父が管理人である私たちへの【回心】への招きではないでしょうか。この言葉には、おん父の【アガペの愛】が詰まっていると言ってもいいでしょう。主人は、管理人のことが気になって仕方がないのです。
一方、管理人は主人からの言葉を受けて、「さて、どうしたものだろう。主人はわたしから管理の職を取り上げようとしている。……そうだ、こうしよう。」と独り言を言います。この管理人は、主人から呼ばれてようやく自分を振り返る【時】を持ったのです。彼は、自分が力仕事や物乞いをすることもできない【弱さ】を持っていること、そのような中で、「今、自分が何をすればいいのか」に気付いたのです。それで、彼は「そうだ、こうしよう」と言うことができたのです。この「そうだ、こうしよう」という気づきに導いてくださったのは、【聖霊】の助けなのかもしれません。
管理人は、「こうすれば、管理の職をやめさせられた時に、人々はわたしを自分の家に迎えてくれるに違いない」と言います。彼は、救いへの道を見出し、「自分の家に迎えてくれるに【違いない】」と確信します。彼は、今でのように「主人の財産を使い込むこと(おん父の道からそれること)」をきっぱりとやめ、救いへの道を歩むことを決心したのです。
彼は、さっそく管理人として行ってきたことを活用して主人の負債者を一人ひとり呼び寄せて、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と尋ねます。負債者はそれぞれ、自分たちがいくら主人に借りがあるのかを報告します。管理人は、彼らの負債からあらかじめ「手数料や利子」として上乗せしていた分を差し引いた額を「証文」に書き直させます。
主人は、彼の抜け目のない振る舞いをほめ、「この代の子らは……光の子らよりも抜け目がないものである」と言います。私たちは、窮地に立たされないと回心できないほど弱い者ですが、それでも聖霊の助けを借りて【何か】をすることができるのです。おん父は、私たち一人ひとりが回心してご自分の所へ立ち返る様(さま)に同伴され、その【何か】からの行いを誉めてくださるお方なのです。
イエス様は、この喩えを話された後、「わたしはあなた方に言っておく。不正な富を利用して、友人を作りなさい。そうすれば、それがなくなったとき、彼らがあなた方を永遠の住まいに迎え入れてくれる。」と言われます。イエス様は、大切なことを伝えようとされる時、「わたしはあなた方に言っておく」と言われます。ここでは、「不正な富を利用して……」ということですが、この「不正な富」というのは、私たちが生活している場での【富】であり、財産や能力、働きと言ってもいいでしょう。イエス様は、私たちがこの【富】を使って自分に与えられた【使命】を果たすようにと伝えられているのでしょう。
私たちは、イエス様から頂いたこの【富】を活用しながら与えられた【使命】を日々の生活の中で【忠実】に果たしていくことができたらいいですね。