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週日の福音解説〜水曜日編〜

神の愛と光の選択—救いと裁きの分岐点(復活節第二水曜日)

マタイ5・17–19

16 神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。 17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じなかったからである。 19 その裁きというのは、光がこの世に来たのに、人々が光よりも闇を愛したことである。彼らの行いが悪かったからである。 20 悪を行う者は光を憎み、光の方に来ない。その行いが明るみに出されないためである。 21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神のうちにあってなされたことが明らかにされるためである。

分析

 ヨハネによる福音書3章16-21節は、キリスト教の信仰の核心を表す非常に重要な箇所です。この中で、神の愛、救いの目的、信仰による永遠の命、そして光と闇の選択について明確に語られています。
1. 神の愛の究極的な表現
 「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。」この言葉は、神の愛の大きさを示しています。ここでの「世(コスモス)」は、神から離れ、罪の中に生きる人類全体を指します。神の愛は、人間の価値や功績によるものではなく、無条件のものです。そして、その愛は抽象的な感情ではなく、「御子を与える」という具体的な行為として示されました。
2. 神の目的:裁きではなく救い
 神がイエスを遣わされた目的は「世を裁くためではなく、救うため」であると明確に語られています。神の意図は、罪を裁いて滅ぼすことではなく、人々がイエスを信じることで救われることでした。しかし、この救いは強制ではなく、人間がそれを受け入れるかどうかの自由が与えられています。
3. 信じる者と信じない者の違い
 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。」ここで言われている「裁き」は、単なる未来の裁判ではなく、すでに現在進行形で起こっている霊的な状態を指しています。信じる者は、神の恵みによって新しい命に生きる者となり、裁きから解放されます。一方で、信じない者は、神の救いを拒むことで、自ら裁きを受ける状態にあります。
4. 光と闇の選択
 「光がこの世に来たのに、人々が光よりも闇を愛した。」ここでの「光」とはイエス・キリストのことであり、「闇」とは罪の世界を指します。なぜ人々は光よりも闇を愛するのでしょうか?その理由は、「彼らの行いが悪かったからである」と述べられています。人間は、自らの罪が暴かれることを恐れ、光に近づこうとしません。しかし、それは神の愛を拒むことと同じです。
 一方で、「真理を行う者は光の方に来る。」と語られています。ここで「真理を行う者」とは、単に正しい行いをする人のことではなく、神の前に自分の罪を認め、悔い改め、光の中を歩もうとする人のことです。光に来ることによって、その人の行いが神の働きによるものであることが明らかにされます。

神学的ポイント

1. 神の愛の無条件性と救いの条件
 神の愛はすべての人に向けられていますが、救いは信仰によって受け取るものです。神は人間を愛し、救いを提供しましたが、それを受け取るかどうかは人間の自由に委ねられています。信じる者は神との関係を回復し、永遠の命を受けますが、信じない者は自ら裁きを選び取ることになります。
2. 裁きの本質は拒絶にある
 この箇所における「裁き」とは、神が人間を積極的に罰することではなく、神の救いを拒むことによる自己選択の結果です。人間が光を拒み、闇の中に留まるとき、それ自体が裁きとなるのです。
3. 光と闇—イエスへの態度が人生を決める
 この世界には光と闇があり、人間はそのどちらを愛するかを選択します。光の中に生きるとは、イエスを信じ、その教えに従うことを意味します。闇を愛するとは、罪にしがみつき、神の真理を拒むことです。この選択は、私たちの人生の方向性を決定づけるものです。
4. 信仰は行いに現れる
 「真理を行う者は光の方に来る。」信仰は単なる知的な同意ではなく、行動を伴うものです。神を信じる者は、その信仰が行動に現れ、神の働きが明らかになります。

講話

 この福音箇所は、私たちに大きな問いを投げかけます。「私たちは光を選び取っているだろうか?」神は御子イエスを世に遣わし、救いの道を開いてくださいました。しかし、その道を歩むかどうかは、私たち一人ひとりの選択に委ねられています。
 「光がこの世に来たのに、人々が光よりも闇を愛した。」この言葉は、今の世界にもそのまま当てはまります。私たちは時に、自分の弱さや罪を認めたくないあまり、神の前に出ることを避けようとすることがあります。しかし、光に近づくことを恐れてはいけません。神の光は私たちを裁くためではなく、癒し、清め、新しくするためにあるのです。
 神の愛は、私たちの過去や失敗に関係なく、今ここにあります。しかし、その愛を受け取るには、信仰の応答が必要です。イエスを信じることで、私たちは罪の束縛から解放され、永遠の命へと導かれます。この選択は、単なる未来の話ではなく、今の生き方に直結するものです。
 「真理を行う者は光の方に来る。」信仰は理論ではなく、実際の生活の中で示されるものです。神の愛を受け入れ、それを行動に移すことによって、私たちの人生は光に満たされます。
 今日、この福音を通して、私たちが光の方へと進む決意を新たにしようではありませんか。闇の中にとどまるのではなく、神の愛と真理に生きる選択をしよう。神の光は、私たちを新しい命へと導く力を持っています。その光の中で、喜びと希望に満ちた人生を歩んでいきましょう。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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