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キリスト教知恵袋

パウロの誕生日について

 パウロの生年月日は不明です。ただ、パウロの年代を推測する重要な手がかりがあります。ここではそれをご紹介します。

 最も重要な第一の手がかりは、「ガリオン碑文」です。これは今からおよそ百年前にギリシアのデルフィで発見された石碑です。その碑文によって、アカイア州の総督であったガリオンの任期が、西暦51年春から52年春までの一年間であったことがほぼ確実になりました。パウロはコリントに一年半滞在する間、ガリオン総督に告訴されそうになりました(使18・12)。ガリオン碑文の発見により、二人の出会いが、西暦51年から52年の間の出来事であったことが裏付けられました。

 ここから、エルサレムでの「使徒会議」の開催年代が推測できるようになりました。『使徒言行録』によれば、この会議は、パウロのコリント滞在の少し前のことでした(使15章)。したがって、「使徒会議」の開催は、西暦48年か49年だったと推測されます。

 第二の手がかりは、パウロの『ガラテヤの信徒への手紙』です。この中で、パウロは回心から三年後に、初めてエルサレムに上京したこと、さらに十四年後に、再びエルサレムに上京したこと、それは先ほどの「使徒会議」に出席するためであったと書いています(ガラテヤ1・18〜2・1)。つまり、パウロの回心は「使徒会議」の十七年前に起こったと、パウロ自身が書き記しているのです。

 ガリオン碑文の援用により、「使徒会議」の開催が西暦48年か49年であったと考えられていますが、これに加えて、『ガラテヤの信徒への手紙』の記述から、パウロの回心が、使徒会議から十七年前の、西暦31年か32年であったと推測することができるのです。

 パウロの年代を推測する上で、重要な第三の手がかりは、西暦64年に起こったローマの大火です。これはパウロの殉教の年代を推測する上で非常に重要です。当時の皇帝ネロは、大火の責任をキリスト教徒に押しつけ、その結果、迫害が始まりました。その迫害のなかで、パウロとペトロは、同じ頃、同じローマの異なる場所で、殉教しました。彼らの殉教は、大火の年である西暦64年から数年の間に起こった悲劇であったと考えられています。

 以上のように、パウロの誕生、回心、殉教の年月日は、確定できるものはありません。ただ、私たちは、かなりの正確さを持って、パウロの年代を推定する、重要な手がかりを持っています。

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