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これってどんな種?

悪からお救いくださいという種 四旬節第1主日(ルカ4・1〜13)

 『主の祈り』は、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と言う祈りで締めくくられています。なぜ、イエス様は、『主の祈り』の中にこの祈りを入れられたのでしょうか。四旬節の中で、この箇所を繰り返し祈りながら、じっくり黙想することができたらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様が40日間荒れ野で悪魔からの試みに遭われる場面です。きょうの箇所の少し前にイエス様は洗礼を受けられ、おん父から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」(ルカ3・21)と言われています。その後に、イエス様は、聖霊に満たされてヨルダン川からお帰りになられます。ここまではいいのですが、なぜ、イエス様は直ぐ宣教をされなかったのでしょうか。おん父は、イエス様に「わたしの愛する子」と言われたのにわざわざ「40日間」もの間荒れ野へ送られたのでしょうか。

 「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」ということわざがありますが、おん父は、ご自分の子を愛しているから聖霊とともにイエス様を荒れ野に送られたのではないでしょうか。みことばには、「霊によって荒れ野に導かれ、40日の間、悪魔の試みに遭われた」とあります。【40】と言うのは、イスラエルの民がエジプトからモーセによって導かれ、【40】年間を経て約束の地にたどり着くまで期間があったように、苦しみを表しているようです。イエス様の40日間の悪魔からの試みは、私たちが陥るあらゆる誘惑を自ら体験させられたのではないでしょうか。イエス様は、おん父のみ旨を忠実に行われ、おん父の愛を十分にお受けになられ、同時に私たちと共に歩むために、荒れ野で悪魔の試みに遭われたと言ってもいいでしょう。

 イエス様は、試みの間何も口にされなかったので、その期間が終わると、空腹を覚えらます。悪魔はイエス様が空腹を覚えられた時を狙って、追い討ちをかけるように「もしあなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と言います。悪魔は、あたかも「あなたはよく頑張った。これは、ご褒美ですよ」と言うように、「石をパンになるように命じなさい」と言ったのです。しかし、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない」とみことばを使われて断られます。イエス様は神の子とですから「石をパンに変える」というのは、たやすいいはずですが、あえてそれをなさいませんでした。

 次に、悪魔はイエス様を高い所に連れていき、瞬く間に世界のすべての国を見せて「あの国々をすべて支配する権威と、その栄華をあなたに与える。……もしあなたがわたしを拝むなら、すべてあなたのものになる。」と言います。イエス様は、これに対しても「あなたの神である主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ」と言われます。悪魔のこの試みはとても魅力的な試みではないでしょうか。しかし、イエス様は、別の箇所で「たとえ全世界を手に入れても、自分自身を滅ぼしたり、失ったりするなら、何の益があるだろうか」(ルカ9・25)と言われています。イエス様は、私たちは権力に溺れ、自分が何でもできる、という錯覚を覚えることの恐ろしさを戒められているのではないでしょうか。

 イエス様の【権威】はご自分のために使われるのではなく、いつも私たちのために使われます。例えばみことばの中で、悪霊に苦しめられている人に対して「『黙れ。この人から出ていけ』……人々はみな驚き、互いに話し合った、『いったい、この言葉は何だろう。権威と力とをもって命令すると、汚れた霊は出ていくとは』」(ルカ4・35〜36)とあります。人々は、イエス様の姿を見てイエス様の【権威】を感じられるのです。悪魔は、私たちの【権威】を自分のために使おうとする傾きを利用して狡猾に試みるのです。

 悪魔は、「わたしは誰でも自分の望む者に、それを与えることができる。もしあなたがわたしを拝むなら」と言います。悪魔は、常に自分が相手よりも優位に立つのです。悪魔は、甘い言葉で誘いながら実は人を上から押さえ込こみ、自分の言うことを聞かせようとし、逆らうものに対してひどい仕打ちをします。しかし、おん父は、ご自分を礼拝する人には、抑圧から解放し、愛と平和を与えられ、一緒にいるだけで温かくなり、喜びで溢れさせ、真の自由をくださいます。このことは、イエス様ご自身が私たちになさったことです。
 さらに悪魔は、イエス様をエルサレムの神殿の頂に立たせて「もしあなたが神の子なら、ここから身を投げなさい。」と言います。この試みは、一見、「おん父が何とかして助けてくださる」というもっともらしい、理由をつけながら、「自分はこのようなことができる」という【虚栄心】ではないでしょうか。

 悪魔は、私たちが弱っている時、何でもできる権威を手に入れた時、また、自分をよく見せたいという気持ちに傾いた時、「あなたならできる」とほのめかし、私たちが「ほんの少し自分のために使ってみようかな」と思う気持ちをくすぐります。私たちは、悪魔の試みに対して本当に脆く弱い者です。ですから「主の祈り」の最後の箇所を常に意識しながら三位一体の主に信頼し、謙遜な心で歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

  2. そのときという種 年間第30主日(マルコ10・46〜52)

  3. 願うという種 年間第29主日(マルコ10・35〜45)

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