ことわざに「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」というものがあります。このことは、あえて相手に試練を与えて成長させるという愛情の表れという意味があるようです。私たちは、「なぜ、私がこのように苦しまなければいけないのか」と嘆くようなことがあることでしょう。しかし、そのような苦難もおん父からの深い愛情の表れと思うことで希望が見えてくるのではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様が「試みる者(悪魔)」に荒れ野で3度試みられる場面です。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた後、おん父から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3・17)と言われた後に聖霊に導かれて荒れ野に行かされます。みことばは、「さて、イエスは霊に導かれ荒れ野に行かれた。それは、悪魔によって試みられるためであった。」とあります。なぜ、イエス様は、「わたしの愛する子……」と言われた後にわざわざ悪魔の試みに合われるために【荒れ野】に行かれたのでしょう。
私たちは、これから悪魔の試みがある、と分かっていながらあえてその困難な場所へ行くでしょうか。多分、行くことを躊躇することでしょう。しかし、イエス様にとって【荒れ野】に行くということは、「わたしの愛する子、わたしの心に【かなう者】である」と言われた、おん父のみ旨に従うためだったのではないでしょうか。イエス様は、お一人で【荒れ野】に行かれたのではなく、【聖霊に導かれて】行かれたのです。ですから、イエス様は、神の子であるとともに【聖霊】の導き(助け)を頂きながら荒れ野に行かれたのです。
イエス様は、40日40夜断食した後、空腹を覚えられます。この「40日40夜断食」というのは、モーセに導かれたイスラエルの民がエジプトからカナンの地に辿り着くまでの40年間を意味しているようですし、聖書の中で「40」というのが苦しみを表すということもあるようです。イエス様にとって【荒れ野】へ行かれるというのは、【苦しみ】をお受けになられるために、必要だったのではないでしょうか。それは、同時に【十字架】への歩みの始まりと言ってもいいでしょう。
さらに、みことばは「空腹を覚えられた」とあります。もちろんこのことは、肉体的な「空腹」もあるのでしょうが、それだけではなく「霊的な空腹(渇き)」もあったのではないでしょうか。それは、まるでおん父からの言葉がないと思われるほどの「空腹」と言えるかもしれません。このような【空腹】は、おん父への全幅の信頼がなければ耐えることができないものです。イエス様は、荒れ野において【空腹】を覚えられながらも決しておん父のみ旨に【かなう者】として過ごされたのではないでしょうか。
そのような時に「試みる者」が近づき、イエス様に「もしあなたが神の子なら、これらの石がパンになるよう命じなさい」といいます。「弱り目にたたり目」という言葉がありますが、空腹を覚えているイエス様への最初の試みが「食」に対するものだったのです。イエス様は、神の子ですからそのような奇跡はおできになられたことでしょう。しかし、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る言葉によって生きる」と言われます。この言葉の中には、肉体的に満たす「パン(食物)」だけではなく、霊的に満たされるために「みことば」が必要と言われているのではないでしょうか。
次に悪魔はイエス様を聖なる都に連れていき、神殿の頂に立たせて、「もしあなたが神の子なら、ここから身を投げなさい……」と言います。「聖なる都」は、エルサレムのことですし、そこの神殿ですから多くのユダヤ人が参拝に来ていたでしょうし、律法学者やファリサイ派の人々や祭司長もいたことでしょう。そのような場所で、イエス様が奇跡を起こしたらとしたら人々はイエス様のことを信じたかもしれません。しかし、イエス様は「あなたの神、主を試みてはならない」と言われます。イエス様は、ご自分が有名になるためにこの世に来られたわけではありませんし、ましてや、おん父が天使を遣わしてご自分を助けるかどうかなど試す必要もなかったのです。悪魔は、虚栄心への試みとともに、おん父を自分のために利用するという試みをさせようとします。
最後に、悪魔は「もしあなたがひれ伏して、わたしを礼拝するなら……」と言います。イエス様は、悪魔に対して「サタンよ、退け。『あなたの神、主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ』と書き記されている」と言われます。悪魔の試みは、私たちの富や権力、何不自由がない暮らしへの欲をくすぐります。その代わり自分を礼拝せよというのです。私たちは、周りからのさまざまな「甘い言葉」に対して「これはおん父へ向かうことなのか」と識別をする必要があります。イエス様は、私たちがこのような誘惑に対して「主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ」と言われます。悪魔は、私たちをおん父への愛から引き離そうとして、さも素晴らしいこと、善行であるような誘惑で試みます。私たちは、日々の中でおん父への信頼のうちに識別をしながら、「わたしの心にかなう者」として生活することができたらいいですね。

