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これってどんな種?

愛する子のひとりという種 主の洗礼の祝日(マタイ3・13〜17)

 私は、幼児洗礼でしたから、洗礼の秘跡をいただいた時の記憶はありません。物心をついた時には、当たり前のように日曜日には、両親と一緒に教会に行きミサに行っていました。ただ、小学校の3年生ごろに一度だけ母親に「どうして、周りの友達は、日曜日に遊んでいるのに僕だけ教会に行かなければならないの」と尋ねたことがあります。このような疑問は、幼児洗礼の秘跡をいただいた人は、一度は経験するのではないでしょうか。

 司祭がミサの時に唱える『集会祈願』には、「ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスにあなたは聖霊を注ぎ、愛する子であることを示してくださいました。洗礼によって新たに生まれ、あなたの子どもとされたわたしたちが、いつもみ心に従うことができますように。」とあります。私たちは、洗礼の秘跡をいただいて【神の子】として新たに生まれているのです。そのように考えますと、私たちがミサに与るというのは、子である私たちがおん父の所に行くということではないでしょうか。私たちは、きょうの典礼を通して改めて洗礼の秘跡をいただいたことに感謝してみることもいいかもしれませんね。

 きょうのみことばは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面です。みことばは、「イエスはガリラヤからヨルダン川にいるヨハネのもとに来られ、彼から洗礼を受けようとされた」というみ言葉で始まっています。ヨハネは、荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え、その言葉を聞いた人々は、洗礼を受けるためにエルサレムやユダヤ全土、またヨルダン川周辺の地域一帯から来てヨハネから洗礼を受けていました。ヨハネの声は、ガリラヤにおられるイエス様の耳にも入ってきたのでしょう。イエス様は、ヨハネの所に洗礼を受けるために大勢の群衆と一緒に行かれます。

 ヨハネは、「後から来られる方は、わたしより力のある方で、わたしはその方の履き物をお脱がせする資格もない。その方は聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)とイエス様のことを言っています。そのイエス様がヨハネの所に洗礼を受けるために来られたのです。ヨハネは、「履き物を脱がせる資格もない者」である自分がイエス様に洗礼を授けるなんてめっそうもないと思ったのです。みことばには「ヨハネはそれを思い留まらせようとして言った、『わたしこそあなたから洗礼を受けるべきです。あなたがわたしのもとにおいでになったのですから』」とあります。ヨハネにしてみれば、自分よりはるか上の人が、わざわざ来てくださり洗礼を授けて欲しいと願っているのです。

 ヨハネが困惑しているのをご覧になられたイエス様は、「今は、止めないで欲しい。このように、なすべきことを果たすのは、わたしたちにふさわしいことだから」と言われます。イエス様は、神の子であり、【聖霊と火】で洗礼を授ける方であるにも関わらず、ヨハネから洗礼を受けることが【ふさわしいこと】だと言われます。イエス様は、神の子ですから罪を犯しておられませんので、「罪を告白して、洗礼を受ける」(マタイ3・6参照)必要はないお方なのです。このことは、イエス様の謙遜とおん父への従順の現れではないでしょうか。パウロは、「キリストは神の身でありながら、神としての在り方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました」(フィリピ2・6〜7)と伝えていますが、まさにイエス様は、人間と同じようにヨハネから洗礼を受けることを望まれたのです。

 イエス様が言われた「わたしたちにふさわしいことだから」とは、どのようなことなのでしょう。この【わたしたち】という中には、イエス様ご自身とヨハネとさらに洗礼を受けるためにヨハネのもとに来た人々を含めて【わたしたち】と言われているようです。このイエス様が言われた【わたしたち】の中には、今、生きている【私たち一人ひとり】も含まれているのです。イエス様は、私たちのためにヨハネから洗礼を受けられたと言ってもいいでしょう。

 ヨハネは、イエス様の言葉を聞いて「そのとおり」に洗礼を授けます。イエス様は、ヨハネから洗礼を受けられ水から上がられると、みるみる天が開かれ、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になられます。使徒行録でペトロは「神はナザレのイエスに聖霊と力を注がれました。」(使徒行録10・38)と言っています。ヨハネがイエス様に洗礼を授けたのは、彼とともにおん父からの【洗礼】と言ってもいいでしょう。私たち一人ひとりが洗礼の秘跡をいただくときは、イエス様がお受けになられたように、おん父によって聖霊の恵みをいただいているのです。イエス様は、まず、ご自分が洗礼を受けることによって私たちにもその恵みを示されたのです。

 さらにみことばは、「天から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」とあります。私たちがいただいた洗礼の秘跡は、おん父から【わたしの愛する子】と言われて授けられたのです。私たちは、改めておん父からいただいた恵みに感謝をするとともにおん父の心にかなう者として日々の生活を歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 愛する子のひとりという種 主の洗礼の祝日(マタイ3・13〜17)

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