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これってどんな種?

イエス様がいちばんという種 年間第23主日(ルカ14・25〜33)

 聖歌の中に『イエスさまがいちばん』という歌があり、その中に「イエスさまがいちばん、たとえそれがどんな場合でも、イエスさまがいちばん」という歌詞があります。私たちは、イエス様が【いちばん】ということは分かってはいても、日常の生活の中でそのように思っているでしょうか。歌詞の中にある【たとえそれがどんな場合でも】という所は、とても深い意味が含まれているように思われます。私たちにとって【イエスさまがいちばん】ということを意識して日々を歩んで行けたらいですね。

 きょうのみことばは、イエス様がエルサレムへの旅の途中についてきた群衆に向かって、弟子のあるべき姿を話される場面です。みことばは「さて、大勢の群衆がイエスとともに歩いていたが、イエスは振り向いて仰せになった」というみ言葉から始まっています。この「大勢の群衆」は、イエス様から癒やされた人、教えを聞いて賛同した人、イエス様がメシアとしてローマの圧政から解放してくれると期待している人などいたでしょうし、もちろん、12人の弟子や72人の弟子たち(ルカ10・1参照)もいたことでしょう。

 イエス様は、ご自分とともに歩いて来た「大勢の群衆」に向かって「わたしのもとに来ても、……」と話されます。イエス様は、彼らがどのような意図があり期待しながらついて来ているのかご存知だったのでしょう。もちろん、彼らの中にも純粋にイエス様に従おうという人もいたでしょうが、大半がそうでは無かったのではないでしょうか。ですから、イエス様が「わたしのもとに来ても」と言われる中には、「ただ、自分の後についてくるだけでは何も意味もないのですよ」という意味が含まれているのかもしれません。

 イエス様は、「自分の父や母、妻や子、兄弟や姉妹、さらに自分の命までも憎まない者は誰もわたしの弟子になることはできない。」と言われます。このことを聞いた人々は、どのように思ったことでしょう。彼ら中には、まだ結婚していない若い人、結婚して家族を持っている人、たくさんの兄弟、姉妹がいる人などいたようですし、家族とともについて来た人もいたことでしょう。そのような人々は、イエス様のこの言葉に、お互い顔を見合わせ、「あの優しい、奇跡をおこなってパンを増やしたり、病気を癒してくださったりされたイエス様がこのように、『家族を憎まないと』と言われるなんて」と思ったかもしれません。

 このルカ福音書の同じ箇所をマタイ福音書では、「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)とあります。ルカ福音書でイエス様が、【憎む】と言われたのは、マタイ福音書の「わたし【より】も」いう意味で、「父や母よりもご自分を【より少なく愛する】者は、誰もわたしの弟子になることはできない」ということのようです。ただ、あえてルカ福音書で【憎む】という表現を使ったのは、イエス様がエルサレムへの「十字架への道」に向かって歩まれているという緊迫した思いを表したのかもしれません。

 さらにイエス様は、「自分の十字架を担って、わたしの後について来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない」と言われます。イエス様が言われる【自分の十字架】とはどのような意味なのでしょう。私たちには、様々な【エゴ】を持っていますし、【弱さ】も持っています。イエス様は、そのような【エゴ】や【弱さ】を持っている【私】を受け入れることの大切さを言われているのではないでしょうか。自分をごまかすことなく、ありのままの自分の姿を認めることは、かなり難しいことです。イエス様は、「ご自分の弟子としてついて来るということは、まず、【ありのままの私】を受け入れるという【十字架】を担ってください」と言われているのではないでしょうか。

 続けてイエス様は、「あなた方が塔を建てようと思うとき、まず座って、それを造り上げるだけの経費があるかどうか計算しないだろうか。……」と話されます。塔を建てるためには、いろいろな材料や人夫が必要になりますし、それなりの費用がかかります。イエス様が言われる【まず座って】という意味は、よく考えるという意味だけではなく、関係がない一切の思いを一旦横に置いて、塔を建てることだけに【集中しなさい】、ということのようです。

 同じように、「どんな王でもほかの王と戦いを交える際には、まず座って、……」と話されます。ここでもイエス様は、【まず座って】と話されます。この【まず座って】というのは、【識別】という意味にもとれるかもしれません。私たちは、洗礼の恵みをいただいてイエス様の弟子となりました。しかし、それだけでは、「わたしのもとについてきても」と言われるかもしれません。イエス様は、私たちが「今の私はどの場所に立っているのか」という【識別】をすることの大切さを教えてくださっているのではないでしょうか。私たちは、日々の生活の中で「イエス様がいちばん」ということを忘れないように心がけイエス様についていくことだけに【集中する】ことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. イエス様がいちばんという種 年間第23主日(ルカ14・25〜33)

  2. 真のへりくだりという種 年間第22主日(ルカ14・1、7〜14)

  3. 霊的なダイエットという種 年間第21主日(ルカ13・22〜30)

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