マザー・テレサの言葉に「愛の反対は憎しみではなく無関心です」という言葉があります。この言葉は【無関心】がどれだけ人を傷つけるのか、人を無視するというのが人を悲しませるのかということを教えているのではないでしょうか。マザー・テレサは、インドで誰からも愛の手を差し伸べられずに亡くなっていく人を見て、心を痛めたのです。私たちは【無関心】ではなく、周りに【関心】の感覚を持ちたいものですね。
きょうのみことばは、「金持ちとラザロ」の譬え話です。きょうのみことばの少し前に、イエス様は、「不正な富を利用して、友人を作りなさい」(ルカ16・9)と人々に話されました。その後の箇所でみことばは、「金銭を愛するファリサイ派の人々は、これらのすべてを聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカ16・14)とあります。きょうのみことばは、そのようなファリサイ派の人々に向けての譬え話のようです。
きょうのみことばは、「さて、ある金持ちがいた。彼は真紅の着物や柔らかい亜麻布を着て、毎日、贅沢に楽しく暮らしていた。」という言葉から始まっています。彼が着ていた「真紅の着物や柔らかい亜麻布を」といのは、当時の王侯貴族たちが着るような贅沢な服だったようです。さらに、彼は「毎日、贅沢に【楽しく】暮らしていた」とありますように、何の不自由もなく生活できるほどの財産を持っていたのです。きっと、毎日たくさんの貴族や財政界の友人が来て宴会をしていたことでしょう。
次に、みことばは「この金持ちの門前には、ラザロという、体中にできものがある、貧しい男が座っていた。彼は、金持ちの食卓からこぼれ落ちるもので、腹を満たしたいと願っていたが、犬までも寄ってきて、その男のできものをなめていた。」とあります。ラザロは、金持ちの男と正反対で体中にできものができるほど入浴もできないくらい貧しく、金持ちの食卓からこぼれ落ちるものを願っていたのですが、それさえも与えられなかったのです。もしせめて、残飯さえもらえるのでしたら、金持ちの男とラザロとの間に何かしらの交わりがあったことでしょう。さらに、当時不浄な動物と言われていた「【犬までも】寄ってきて、その男のできものをなめていた」とありますので、ラザロは、犬からも餌としか見られない、という惨めで貧しい生活を送っていたのです。
ラザロは、やがて亡くなりみつかいたちによって、アブラハムのふところに連れていかれます。きっと、彼は死んだ時も誰からも葬儀もされず、どこかに葬られたことでしょう。しかし、みことばにありますように、彼はアブラハムのふところに連れていかれます。このことは、天の国の宴の最高の場所にいるということのようです。彼は、ようやく亡くなった後でアブラハムのふところの温もりと安らぎを受け、生きていた時には味わえなかった愛を知ったのでした。
一方、金持ちの男も死んで陰府で苦しみます。彼の葬儀は、町中を挙げての悲しむほどだったことでしょうが、亡くなってからは、炎の中で悶えるほどの苦しみを味わいます。この金持ちは、なぜ陰府に行き、ラザロは、アブラハムのふところに連れていかれたのでしょう。もし、金持ちが陰府にいくとしたら、世の中の金持ちはすべて陰府に行くことになります。
福音の中には、「愚かな金持ち」(ルカ12・16)、「金持ちの議員」(ルカ18・18)、「金持ちの青年」(マタイ19・16〜22、マルコ10・17〜22)のようにたびたび「金持ち」の話が出てきます。彼らの共通していることは、自分の財産を人々に施すことができなかったことでした。彼らは、何も罪を犯したわけでもなく、むしろ律法を守り周りの人から尊敬されていたことでしょう。しかし、財産を手放すことができなかったのです。
金持ちは、自分が陰府に炎の中で悶え苦しみ、ラザロがアブラハムのふところにいるのを見て、なぜ自分がここにいるのか疑問を覚えたことでしょう。彼は、亡くなった後でも、「ラザロを遣わして、その指先を水に浸し、わたしの舌を冷やしてください」と懇願します。彼にとってラザロは、使用人以下としか見ていなかったのです。彼の傲慢さは、なくなることなく自分の兄弟が陰府に来ないようにと、自分のことだけしか頭になかったのでした。
アブラハムは、金持ちの願いを断り「もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、誰かが死者の中から生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう」と言います。アブラハムは、聖書の中で伝えるおん父の【愛】を知っていたのならラザロへの愛の手を差し伸べたはずだと言っているのではないでしょうか。ヨハネは、「目に見える自分の兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません」(1ヨハネ4・20)と言っています。
私たちは日々の生活の中で、どんな些細なことでいいので周りに【関心】を示す感覚を持ち続けることができたらいいですね。