「いたれりつくせり」という言葉がありますが、この意味は「行き届いていて、申し分の無い様子」(『新明解国語辞典』)とあります。私たちは、飲食店や宿泊施設、または、人から家に招待を受けた時など、相手から「いたれりつくせり」としたもてなしを受けた時には、感謝の気持ちが出てきて、また、「来てみたいな」と思うのではないでしょうか。私たちは、「いたれりつくせりなもてなし」を受けた時の感謝を、今度は周りの人に対して返してもいいかもしれませんね。
きょうのみことばは、ぶどう園の悪い小作人の喩え話をイエス様が祭司長や、民の長老に対して話された場面です。この箇所は、前の『2人の息子の喩え』に続いて話されています。イエス様は、祭司長や長老たちに対して「もう一つの喩えを聞きなさい」と言われます。このことは、イエス様が「ヨハネの洗礼はどこからのものか。天からのものか、それとも人からのものか」(マタイ21・25)という質問に対して、「分かりません」と自分たちの立場を守ろうとした彼らの答えに対しての回心を促すための強い言葉と言ってもいいでしょう。
イエス様は、「1人の地主がいた。彼はぶどう園を造って、垣根を巡らした。その中に搾り場を設け、物見櫓を建てた。これを小作人たちに貸し与えると、旅に出た」と話し始められます。この喩えの中で「地主」は、おん父を指していますし、「ぶどう園」は、イスラエルの民、そして「小作人」は、祭司長や長老たちのような宗教指導者を指しているようです。おん父は、彼らに対して善いぶどうを実らせるようにと、【いたれりつくせり】とすべてを整えてくださったのです。【実ったぶどう】は、イスラエルの民をおん父へ導くという彼らの使命の【実り】ということです。
地主であるおん父は、すべてを彼らに「貸し与えて」旅に出ます。このことは、祭司長や長老たちが【善いぶどう】を作るために彼らを信頼し、託したということを意味しています。イザヤ書に「わたしは歌おう。わたしの愛する者のためにわたしの愛する者のぶどう園の歌を。」(イザヤ5・1)とありますように、おん父は、当時の指導者に対して「愛する者」と言われます。
イエス様は、「収穫の季節が近づいたので、地主は収穫を取り立てるために、僕たちを小作人のもとに遣わした」と話されます。このことは2つの理由があるのではないでしょうか。まず一つ目は、地主が、いつもぶどう園の小作人のことを気にとめられ、善いぶどうができるのを「首を長くして」待っているということです。ですから、「収穫の時」ではなく、「収穫の季節が近づいたので」僕を送ったのでしょう。もう一つの理由は、この譬え話がイエス様の「エルサレム入城後」の話だからです。このことは、イエス様の「受難と死そして復活」の時が近づいていることを表しているのではないでしょうか。
この「僕」は、おん父がイスラエルの民に送った「預言者」を指しています。小作人たちは、地主が送った「僕」たちを捕まえて、「打ちたたき、殺し、石打ち」にします。このことを知った地主は、「前よりも多くの僕たち」を送りますが、小作人たちは、「僕」たちに前と同じように酷い目に合わせます。地主であるおん父は、人々、特に指導者たちが回心しご自分のもとに立ち返るようにと「預言者」を送られました。みことばの中に「前よりも多くの僕」とありますのは、おん父の愛からと言ってもいいでしょう。おん父は、それだけイスラエルの民のことを心配され、気にとめられ、愛されておられるのです。
地主は、再三三度送った「僕」に対して小作人が殺戮を犯したために、ご自分の子を送ります。みことばには、「わたしの子なら、恐れ敬うに違いない」とあります。この「ご自分の子」はイエス様ご自身を指しています。イエス様は、祭司長や長老たちに対して喩えの中で【ご自分】を登場させます。地主は、「恐れ敬うに【違いない】」と言っていますので、どこまでも彼らに対して信頼し、期待していたのです。しかし、小作人たちは息子を捕まえて、ぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。イエス様は、ご自分がどのような死を遂げるかということを話されます。
イエス様は、彼らに対して「ぶどう園の主人は帰ってきたら、この小作人をどうするだろうか」と喩え話を終えられます。彼らは、「……季節ごとに収穫を納めるほかの小作人に、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」と答えます。今回も彼らは、まだ、「小作人」が自分たちのことだと気づいていません。そのような彼らに対してイエス様は、「それ故、あなた方に言っておく。神の国はあなた方から取り上げられ、神の国の実を結ぶ民に与えられる」と言われます。ここで、ようやく彼らは、「小作人」が自分たちのことを言っていたことに気づくのです。
おん父はいつも私たちに対してまさに「いたれりつくせり」の【アガペの愛】をくださいます。この喩えの「小作人」のように、酷いことはしていませんが、もし、自分のエゴを優先するとしたらおん父からの愛を無駄にすることになってしまいます。私たちは、おん父から【アガペの愛】をいただいていることを謙虚な心で受け止め、感謝をしながら日々を過ごすことができたらいいですね。
