「ねたむ」という言葉がありますが、その意味は、「他人の幸運・長所をうらんで、幸福な生活のじゃまをしたいという気持ちをいだく」(『新明解国語辞典』)とあります。私たちは、あまり「ねたむ」ことはしませんが、自分のエゴに縛られていると周りの人の幸せな様子が、ついつい「あの人は、幸せそうでいいな。それに比べて自分は……」と思ってしまいます。他に能力がある人、経済的に富んでいる人、自分より優れた人を見るときも「ねたむ心」が出てくるのではないでしょうか。もし、そのような心が出てきた時、「あっ、自分は今あの人を妬んでしまった」と思って「神様ごめんなさい」という気持ちになればいいですね。
きょうのみことばは、ぶどう園の主人が労働者を雇う喩え話の場面です。イエス様は、「天の国は次のことに似ている。」と喩えを話し始めます。人々は、「天の国とは何だろう。」と思ったことでしょう。イエス様は、たびたび「天の国は……」と話されます。もちろん、この「天の国」というのは、私たちが亡くなって行く所という意味ではなく、おん父と共にいる所という意味です。人々は、苦しい生活、人より劣っているという気持ち、病気や老いなどの苦しさなど、さまざまな苦しみの中で生活していました。それだけではなく、素直におん父の所に行くことができない苦しみも抱えているかもしれません。イエス様は、そのような人々に対して「天の国は……」と言われているのです。
イエス様は、「ある家の主人がぶどう園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。彼は1日1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。……」と話されます。この主人は、太陽が昇るころに出かけて行ったのでしょう。さらに、イエス様は、「9時ごろ、再び市場に出かけると、何もせずに立っている人がいたので、彼らに言った、『あなた方もぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう』。……」と話されます。主人は、ぶどう園で働く人を何人でも雇うほど人が必要なのでしょうし、「何もせずに」とありますから、この主人は、彼らに対して「憐れまれた」のではないでしょうか。
この喩えの「主人」とは、おん父のことを指しています。おん父は、生きる希望もなく【何もせず】に過ごしている人に希望を与えようとされているのです。ですから、みことばの中に出てくる【賃金】というのは、希望であり、おん父からの恵みと言ってもいいしょう。主人は、さらに12時ごろ、3時ごろと出かけて行き同じように人々に声をかけ雇われます。おん父は、人々が「何もしない人」に対して何度も、何度もご自分の所に来なさいと声をおかけになられているのです。ここにおん父のアガペの愛があります。
イエス様は、「さらに5時ごろ、出かけると、ほかの人たちが立っていたので、『なぜ何もせず、1日じゅうここに立っているのか』というと、彼らは『誰も雇ってくれないからです』と答えます。そこで、主人は彼らに、『あなた方もぶどう園に行きなさい』と言った」と言われます。ここでも、主人は「なぜ何もせず、1日じゅうここに立っているのか」と質問しています。きっと、主人もこの時間に雇うとすれば、1時間しか働けないということは知っていたはずです。それでも、主人は彼らを雇わずにいられなかったのです。
彼らの答えは、「誰も雇ってくれないからです」というものでした。彼らは、1日中暑い中不安な気持ちで雇われるのを待っていたのです。もしかしたら、彼らは、老人であったり、体が不自由であったり、人々から蔑まれていた人だったのかもしれません。彼らは、働きたくないのではなく、働きたくても雇ってもらえず、相手にされず、惨めな気持ちを抱えている人たちだったのでしょう。主人は、そのような人にこそ声をかけられます。
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に「労働者を呼び、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちまで、賃金を払いなさい」と言われます。管理人は、主人から言われた通り各々「1デナリオン」を払っていきます。しかし、その中で最初に雇われた人たちは、最後に雇われた人よりも多く貰えると思ったのですが、実際に貰ったのは、「1デナリオン」でした。彼らは、「……1日じゅう労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じように扱われる」と主人に不平を漏らします。彼らにとっての労働は、喜びではなく、「労苦と暑さを辛抱する」ものだったのです。彼らは、1日中雇われずに待つだけしかできない人々の苦しみを理解できませんでした。
主人は、「友よ、わたしはあなたに何も不正なことはしていない。……わたしはこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ。……あなたはねたむのか」と不平を漏らした人に言います。主人のこの心は、誰に対しても誠実であり、強い人、能力を持つ人にも、そうでない人にも同じように向けられる【愛の目】だったのです。一方、主人の支払い方に不満を持った人々は、主人の【愛の目】を理解できずにねたむ心をいただきます。私たちは、おん父の愛によって生かされ、養われています。私たちはおん父から雇われ、その労働という恵みを喜びと感謝を持って果たすことができたらいいですね。
