能面の中に「般若」という面があります。これは、女性の恨みや妬みを表した鬼のような面です。男性、女性を限らず「妬み」の心はとても怖いものです。イエス様の時代にも嫉みの心は、あったのではないでしょうか。イエス様の評判が民衆に広まるのを見ていた民の長老や律法学者たちは、いつもイエス様が失墜することを望んでいましたし、それだけではなく殺そうとまで考えていました。人は、そこまで残虐になれるのだと考えるだけで怖くなってしまいます。
きょうのみことばは、ファリサイ派の人たちが自分の弟子たちとヘロデ党の人たちをイエス様のところに遣わして納税について質問させる場面です。みことばは、「それから、ファリサイ派の人々は外に出ると、イエスの言葉じりをとらえようと協議した。」という言葉から始まっています。
彼らは、エルサレムの神殿でイエス様から「2人の息子の喩え」(マタイ21・28〜31)、「悪い小作人の喩え」(マタイ21・33〜46)をされ、自分たちの偽善が暴かれます。それで彼らは、イエス様を捕らえようとしますが、民衆がイエス様を預言者だと思っていたのでできませんでした(マタイ21・46参照)。さらに、追い討ちをかけるようにイエス様は、「王子の結婚披露宴の喩え」(マタイ22・1〜14)で、披露宴に招かれたがそれを無視したり、迎えにきた僕たちを殺したりした人を示されて、ファリサイ派の人々や律法学者たちのことを喩えられます。このようなことが起こった後ですから、彼らはイエス様から侮辱されただけではなく、ますます、民衆がイエス様の方に向かうことに我慢ができずなんとかしてイエス様を陥れようと考えて協議をしたのでした。
彼らは、協議をした結果ひごろ問題視をしていたローマへの納税について質問してイエス様の言葉じりをとらえようとします。彼らは、いつもならば決して一緒に行動を共にしない「ヘロデ党」の人たちの所に自分たちの弟子を送ります。「ヘロデ党」の人たちは、ローマ下で、ヘロデ大王の家系による支配を支持していた政治団体です。ですから、彼らはどちらかというとローマ寄りの人たちです。ファリサイ派の弟子たちとヘロデ党の人たちはイエス様のところに行き、「ローマ皇帝に税金を納めること」の是非を問います。
彼らは、まずイエス様に「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、……」とイエス様を敬う言葉を使って挨拶をします。イエス様は、以前、ファリサイ派の人々のことを「偽善者たち、イザヤ書はあなたたちについていみじくもこう預言した、『この民は口先だけ私を畏れ敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。』」(マタイ15・7〜8)。と言われています。まさに、彼らはイエス様に口先だけの敬った挨拶をしたのです。しかし、彼らのこの挨拶は、彼らが認めたくないイエス様が日頃から人々に語られていた教えであり、生活でもありました。
彼らは、イエス様に挨拶をした後に、「ところで、お伺いいたしますが、どうお考えでしょう。」と切り出し、「ローマ皇帝に人頭税を納めることは、許されているでしょうか。いないのでしょうか」と質問します。この質問はイエス様がどちらを答えても不利になるものでした。もし、イエス様が「税金を納めるべきだ」と答えると、ローマへの納税で苦しんでいる民衆の反感をかいます。逆に「税金を納めなくてもいい」と答えると、ローマへの叛逆になるのです。ファリサイ派の人たちは、この質問をイエス様に投げかけるために、「ヘロデ党」の人たちを一緒に遣わしたのでした。ファリサイ派の人たちは、そこまで協議をしてイエス様を捕えようとしていたのです。
イエス様は、彼らの悪意を見抜かれて「偽善者たち、どうしてわたしを試みるのか。」と言われます。イエス様が彼らに「偽善者たち」と言われたのは、彼らがこの質問する前の挨拶だけを言われたのではなく、彼らが日常では平気でローマの銀貨である「デナリオン銀貨」を使っているのに自分たちが納税する時には、そのことを問題視しているからでした。イエス様は、彼らが持ってきたデナリオン銀貨をご覧になられ「これは誰の肖像か。また誰の銘か」と尋ねられます。このデナリオン銀貨には、ローマ皇帝の肖像があって「神的アウグストゥスの子、皇帝にして最高神官なるアウグストゥス・ティベリウス」と銘が彫られていました。
イエス様は、「わたしが主である。ほかにはいない。わたしをおいて神はいない」(イザヤ45・5)というみ言葉を知っているにもかかわらず、ローマ皇帝を神として銘が彫られているデナリオン銀貨を彼らが使っていることを指摘しています。イエス様は、彼らに対して「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられます。イエス様は、納税について議論するよりも、もっと大切な神に対して自分を捧げることを語られます。
ファリサイ派の人々は、妬みから出たイエス様の言葉じりをとらえる口実が、思わぬ墓穴を掘る羽目になったのでした。私たちは、「何が大切なことか」を見極めて人々に愛の心で接することができたらいいですね。
