1 貧しい人々
*神は貧しい人々を助ける人々を祝福し、ないがしろにする人々を排斥なさいます。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ5・42)。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8)。イエス・キリストは、貧しい人々を助ける人をご自分の選ばれた者としてお認めになります。「貧しい人に福音が告げ知らされる」(マタ11・5)ことば、キリストの現存のしるしなのです。
*「貧しい人々に対する教会の愛は、……教会の普遍の伝統の一部となっています」。これは、真幅八端の教えやイエスの貧しさ、および貧しい人々へのイエスの思いやりなどに基づいた考え方です。働く義務があるという理由の中には、貧しい人々への愛というものも含まれています。つまり、困っている人々にひつようなものを分け与えることができるための収入を得るために働かなければならない、ということです。この貧しさというものには、単に物質的貧しさだけではなく、種々の形の文化的・宗教的貧しさも含んでいるのです。
*貧しい人々への愛と、富への過度の愛着ないしその利己的な使用とは、相いれないものです。ヤコブの言葉に次のようなものがあります。
「飛んでいる人たち、よく聞きなさい。自分に降りかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなた方の富は朽ち果て、衣服には虫がつき、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなた方は、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。ごらんなさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなた方は、地上で贅沢に暮らして、快楽にふけし、ほふられる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません」(ヤコブ5・1~6)
*聖ヨハネ・クリゾストモは、このことを厳しいことばで次のように述べています。「自分の財産を貧しい人々に分け与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。私たちが持っている物は私たちのものではなく、貧しい人々のものです」。第二バチカン公会議の『信徒使徒職に関する教令』では、「正義の立場からなすべきことはまずなし、かりにも正義の立場からすでに与えなければならなかったものを、愛の贈り物としてあたえるようなことはあってはならない」という説明がなされています。
2 慈善
*慈善の業とは、身体的・精神的に困っている人々を助ける愛の行為です。教え、助言し、慰め、励ますことなどは、ゆるし、耐え忍ぶことなどと同じように、精神的な慈善のわざです。特に飢えている人に食べさせ、宿のない人に宿を提供し、着る物を持たない人に衣服を与え、病人や受刑者を訪問し、死者を埋葬することなどは、身体的な慈善の業です。以上の業の中で、貧しい人への施しは、兄弟愛のあかしの代表的なもののひとつです。それはまた、神に喜ばれる正義の実践でもあります。
*「貧困、不正な抑圧、肉体あるいは精神の病気、そして最終的には死、というように、人間のみじめさは、原罪以来自覚されるようになった、人間の生来的な弱さのはっきりとした証拠であり、人間が救いを必要としていることのしるしです。それが、救い主キリストの慈しみを呼び、その惨めさをわが身に受け、ご自分を『(その)兄弟であるもっとも小さい者の一人』(マタイ25・40、45)と同一視させることになったのです。それ以来、貧しさにうちひしがれている人々は、とくに教会にとっても優先的な愛の対象となっています。信者たちが皆そうしたわけではありませんが、教会設立の当初から、彼らの救済、擁護、解放のための働きは絶えたことがありません。教会は、いつの時代にも、どんなところでも欠かせない慈善の事業を通じてこれを実践してきました。
