今日の前の箇所は、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17・4)とあります。つまり、罪の赦しがテーマになっていました。人を赦すためには、深い信仰を伴うものでしょう。
そんなことが語られた後、使徒たちがイエスに「わたしどもの信仰を増してください」とつながっていきます。するとイエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、(中略)言うことを聞くであろう」と、示唆に富む言葉を語られます。「からし種」を見たことがありますが、ダイコンの種よりも、もっと小さいものです。イエスが表現する「からし種」とは、人の目には小さくても、神の国のために偉大なことを成し遂げる意味を持っています。
休暇で郷里の西木場教会や周辺の教会(平戸方面)を訪問すると、信徒たちが力を結集して造り上げた教会を数多く見ることができます。田平教会、平戸教会、宝亀教会、紐差教会、山田教会など…。「自分の家よりもまず教会を造りたい」という素朴な信仰がそれを実現していきました。一人はレンガのために土を掘ったり、貝を拾ったり、他の一人はレンガを焼く。一人は教会の柱や床板のために木を切り出し、他の一人はそれを荷馬車で運び、製材していく。多くの人たちの力の結集によって、立派な教会が建てられていきました。だれの力というよりも、信者一人ひとりの力がそうしたものを生み出していきました。信徒一人ひとりの力は小さな「からし種」のようなものかもしれません。しかし、自分たちの教会を造りたいという信仰や目標が実を結びます。今では多くの観光客が訪れるようになりましたが、建物を通して信仰の結集を感じるのもよいでしょう。
「からし種一粒ほどの信仰」。その信仰は、私たちの身近な教会に見えてくるのではないでしょうか。