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カトリック入門

「カトリック入門」 第70回 広島の殉教者【動画で学ぶ】

*広島の殉教者には、フランシスコ遠山甚太郎(24歳)、マチアス庄原市左衛門(34歳)、ヨアキム九郎右衛門(65歳)がいます。

<遠山甚太郎>
*遠山甚太郎は1600年、甲斐の国(山梨県)で、浅野幸長の家臣の家に生まれます。幸長が関ヶ原の合戦の恩賞として与えられた紀伊の国(和歌山県)に入城した時、遠山家も有力な家臣として一緒に移りました。
*15歳だった甚太郎は、紀伊にいたフランシスコ会のアポリナル・フランコ神父に出会い、話を聞いて洗礼を受けます。彼は非常におとなしく、やさしい性格で、信心深く、心が広く、フランシスコの霊性に従って生きる道を選びました。やがて結婚し、妻も信者になったと思われます。
*彼の大きな家はすべての宣教師のために開かれ、紀伊での小さな教会のような様相でした。当時、和歌山には教会がなく、1614年に宣教師が追放されたこともあり、常駐の宣教師がいませんでした。しかし、甚太郎は宣教師が訪れると宿を提供していました。やがて「甚太郎が宣教師に宿を与えている」といううわさが広がり、姑(しゅうと)は彼を呼んで、「宣教師に宿を提供しないでください。危ないですから」と言うと、甚太郎はやさしい表情で、「私にそのことについて何も言わないでください。自分は危険があることを十分知っています」と。1619年、彼の主君である浅野長晟(ながあきら)が広島へ移り、彼もそれに従いました。
*広島では福島正則が宣教を許可し、信者の共同体が残っていました。甚太郎はマチアス庄原市左衛門とヨアキム九郎右衛門と親しくなり、三人とも広島の教会のために命をささげました。甚太郎は広島に移ったあと、彼に洗礼を授けたフランコ神父が大村の牢屋に入れられたことを知り、見舞いに行く計画を立てました。イエズス会のポーロ神父にそのことを打ち明けると「今は行かないほうがいい。今行ったらすぐ捕らえられて、牢屋に入れられる。神様の望みだったら、いつか殉教者になる」と。この助言に彼は忠実に従い、自分の番を待ちました。彼の生活は信心深く、家ではよく祈る人で、宣教師からいただいたローマの聖母マリアの絵も大切にしていました。1624年2月16日、屋敷内の聖母像の前で斬首されました。24歳の若さ。

<マチアス庄原>
 マチアス庄原は非常に身分が低い役人で、広島の牢番でした。彼は投獄されていたイエズス会のアントニオ石田神父から洗礼を受けます。牢屋は狭く、屋根が低いこともあり、立つこともできない状況で、一日中、横になっていました。不自由な牢での生活でも一つだけ便利なことがあります。そこには外に開かれた小さな窓があり、石田神父はその窓を使って宣教していました。庄原はその窓から石田神父の話を聞き、洗礼を受けた一人でした。彼が信者になったら牢屋が教会になる。牢屋の内外で宣教師たちに積極的に協力していました。彼は1624年2月17日、はりつけの刑で殉教しました。

<ヨアキム九郎右衛門>
*ヨアキム九郎右衛門は、広島に新しいお城が建てられた時、仕事があるからということで家族と共に田舎から出てきて、そこで洗礼を受けました。非常に信心深く、祈るのが好きでした。教会で奉仕し、司祭の慈悲役となります。慈悲役とは、当時の伝道師のような奉仕職でした。司祭がいない所には、慈悲役がすべての慈悲の行いをします。例えば、病気の人を見舞いに行くこと、幼児洗礼、葬儀、埋葬、要理など。彼は慈悲役として司祭と協力して奉仕した人です。
*九郎右衛門は1624年3月8日、はりつけの刑で殉教しています。死刑の場所は広島の己斐(こい)という所です。現在は、広島の己斐の丘のふもとに、広島の殉教者の記念碑が建立されています。

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