私がいる修道院の近くに日本基督教団の幼稚園があります。毎朝登園の時間になりますと、園長先生が門の所で子どもたちや保護者の方一人ひとりに声をかけられ迎えられます。子どもたちは元気に園舎に向かい、保護者の方々はご自分の家や会社へ向かわれます。保護者の方々は、きっと「この幼稚園だったら、安心して子どもを預けられる」と思われているでしょうし、子どもたちも「園の中で安心して過ごすことができる」と思っているのでしょう。そして、お迎えの時間になると、保護者の方が子どもを迎えに来られ、子どもたちはお友達と名残惜しそうに、互いに名前を呼び合ってそれぞれの家に帰っていきます。そのような風景を見るとき、この幼稚園は、とてもいい園なのだなと思ってしまいます。
きょうのみことばは、イエス様が「わたしは羊の門である。」とファリサイア派の人々に言われる場面です。きょうの箇所の前の9章は、生まれつきの盲人がイエス様によって癒やされる場面です。その中で、イエス様の声に安心して聞き従った盲人は癒やされますが、その後にファリサイ派の人々との問答があってあります。その結果、盲人は、ユダヤ人たちの社会から追い出されてしまうのです。
きょうのみことばは、盲人を追い出したファリサイア派の人々に対してイエス様は、「よくよくあなた方に言っておく。羊の囲いの中に門から入らず、他の所を乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である。……」と言われます。イエス様は、福音書の中で「よくよくあなた方に言っておく。」と言われます。特にきょうのみことばでは2回も言われます。この言葉は、「これからいう話は、大切なことですよ」とイエス様が人々に伝えるときに用いられるのです。この言葉は、イエス様の周りの人々に対しての言葉であると同時に、私たち一人ひとりに対しての言葉でもあります。私たちは、このようにイエス様が言われた時には、今一度ご自分のこととして振り返ってみるといいかもしれません。
イエス様は、「羊の囲いの中に門から入らず、……」と言われます。パレスチナの羊の囲いは人の背丈くらいあり、門は一つだけだったようです。羊たちは、囲いの中で夜を過ごし、朝になると羊飼いと共に門から出ていくのです。イエス様は、ユダヤ人たちの身近な生活の習慣を用いながら「大切」な譬え話をされまたのです。羊や山羊などの家畜は、遊牧生活をしている人たちにとって、財産ですからそれを門以外から入って家畜を奪うというのは、まさに「盗人であり、強盗である」ということなのです。
イエス様は、ここで「羊の囲い」と「囲いの外」ということを改めて伝えようとされているのでしょう。この囲いの中は「おん父と共にいる【神の国】」と言ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、門以外から「盗人や強盗」が入って人々を誘惑する【敵】がいることを伝えようとしているのかもしれません。私たち一人ひとりは、おん父という囲いで守られていますが、時々、その囲いの隙間を狙って【敵】が入ってくるのです。私たちは、さまざまな侵入者に対して【識別】する必要があるのです。
イエス様は、「……羊飼いは、自分の羊をそれぞれの名を呼んで連れ出す。」と言われます。パエスチナでは、共同で自分たちの羊を「囲いの中」に入れていたようです。ですから、羊飼いたちは、自分たちの羊に名前をつけて呼び出し門から連れ出していたのです。聖書の中で「名前」というのは、「誰々さん」という意味だけではなく、その人のすべての人格をも表していました。ですから、羊飼いであるイエス様は、羊である私たちのすべての良い所も、弱い所もご存じのうえで名前を呼ばれておられるのです。
イエス様は、「羊は、羊飼いの声を知っているので、ついて行く。……」と言われます。私たちは、呼ばれている【声】がイエス様からの【声】であるとすでに知っているのです。ですから、私たちは、その【声】がイエス様以外の【声】だったら心のどこかに【違和感】を覚えることでしょう。この【声】を聞き分けるためには、「糾明と識別」が必要になって来るのです。
イエス様は、「わたしは羊の門である」と言われます。イエス様は、羊飼いとして、私たちを導かれると同時に、門として私たち一人ひとりを守ってくださいます。イエス様は「わたしを通って入るなら、その人は救われる。また、出入りして、牧草を見つける」と言われます。この「出入りして」という言葉は、神に祝福された平穏な日常生活を意味しているようです。ですから、私たちは、イエス様という門を通って、おん父から祝福された日常生活をすでに送っているのです。さらにイエス様は「わたしが来たのは、羊に命を得させ、しかも、豊かに得させるためである」とお約束されます。
私たちは、おん父の囲いの中で生活し、さらにイエス様の門で守られ、また、自由に【牧草】を食べるという恵みをいただいているのです。そのことに信頼と感謝のうちに「敵から守り、イエス様の声を聴く耳をください」と祈りながら、日々を安心して歩んでいくことができたらいいですね。
