私たちにとって、「恐れ」とはどういうことなのでしょうか。どのような時に「恐れ」を感じるのでしょう。「恐れ」という意味は、「恐れること。恐れこわがる気持ち。」(『新明解国語辞典』)とあります。しかし、ただ単に「恐怖」という恐れだけではなく、未知なるものへの恐れや、自分の罪深さから来る恐れなど、一口に「恐れ」と言ってもさまざまな意味が含まれているのではないでしょうか。今一度、「私の根っこにある『恐れ』とは何か」ということを見つめてみるのもいいかもしれませんね。
きょうのみことばは、イエス様が弟子たちの前で「変容」される場面です。みことばは「6日の後、イエスはペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山にお登りになった。」と始まります。この「6日の後」というのは、イエス様が弟子たちに「ご自分がエルサレムに行き、長老、祭司長や、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、そして3日目に復活することを、弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16・21)とありますように、ご自分がどのような最期を遂げるかということを伝えた時から「6日目」なのです。
弟子たちは、この間どのような気持ちだったのでしょうか。ペトロが弟子たちを代表して「主よ、とんでもないことです。決してそのようなことはありません。」(マタイ16・22)と言ったように、彼らの心の中では、自分たちが師と仰ぎ、メシアではないかと思っているイエス様がそのような死に方をするなんて、とんでもない、と思っていたのではないでしょうか。ただ、弟子たちは、イエス様が言われた「3日目に復活する」という言葉を忘れていたのでした。
このような「受難告知」があってからの「6日の後」にイエス様は3人の弟子たちだけを連れて高い山にお登りになられます。イエス様は、彼らが見ている前で姿が変わられ、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白く輝きます。この様子は、天の国での姿のようです。マタイ福音書では、「正しい者たちは父の国で太陽のように輝く」(マタイ13・43)と【天の国】での姿を記しています。
そこへモーセとエリアが現れて、イエス様と語り合います。みことばには書かれてありませんが、モーセとエリアもイエス様のように太陽のように輝きいていたのではないでしょうか。弟子たちは、この神々しい光景を見て「なんて素晴らしい場面に自分たちはいるのだろうか」と興奮したことでしょう。ペトロは思わず彼らの会話の途中に口を挟んで「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。」と言います。ペトロは、本当に正直な人で自分が思っていることを素直に口にする人なのでしょう。イエス様と他の二人が大切な話をしているのに「口を挟んで」しまうくらい興奮と感動を覚えたのです。
ペトロは、「お望みなら、わたしはここに3つの仮の庵を造りましょう。1つはあなたのため、1つはモーセのため、1つはエリアのために」と言います。ペトロは、この素晴らしい場面を常に留めていたいと思ったのでしょうし、他の2人の弟子たちも同じ気持ちだったことでしょう。しかし、このことは「この神々しい空間と時間を自分たちのものだけにしたい」という気持ちの表れでもあるのではないでしょうか。ここには、私たちが陥りやすい【弱さ】があるのかもしれません。私たちは、何か素晴らしいものを手に入れた時、誰にも渡したくない、自分だけで楽しみたい、と思ってしまいます。私たちは、改めて「私が他の人に渡したくないもの、大切にしているものは何か」と考えてみるのもいいのかもしれません。
さて、みことばは「ペトロがまだ言い終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。」と続きます。この「光り輝く雲」というのは、おん父の顕現と言ってもいいでしょう。おん父は、ペトロが人間的な弱さをすべて言い終わるのを止められます。例えば、ルカ福音書では、有名な放蕩息子の喩え話の中に「もうあなたの子として呼ばれる資格などありません」という所で彼の言葉を遮り、「父は僕たちに言った」とあります。息子は、その後に「どうか、あなたの雇い人の一人にしてください」と言おうとしていたのです(ルカ15・19〜22参照)。このようにおん父の遮りは、アガペの愛の表れと言ってもいいでしょう。
そして、その雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。彼に聞け」と声がします。弟子たちは、これを聞いて倒れ伏し、非常に恐れます。弟子たちは、おん父の声を聞いてただ恐怖に陥ったのではなく、自分たちが「仮の庵」を造ろうとした人間的な弱さに気づいて恐れたのです。私たちは、それぞれ「大切なものを自分のものにしたい」という弱さもありますが、「他の人に触れられたくない傷」という弱さを持っています。
イエス様は、恐れ倒れている弟子たちに近づかれ「起きなさい。恐れることはない」と言われます。イエス様は、自分の弱さに気づいた弟子たちに「恐れることはない」と言われて手を触れられます。イエス様は、アガペの愛の手で弱くて罪深い私たちの心に触れ受け入れ癒してくださるのです。私たちは、このアガペの愛に信頼してイエス様と共に歩んで行けたらいいですね。
