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みことばの響き

修行 年間第13主日(ルカ9・51~62)

 どんな世界でも、一人前の職人になるには、相当の修行を要します。25年くらい前のNHKの連続テレビ小説に「うらら」という番組がありました。一人の女性が大工さん目指して修行を積んでいくストーリーです。弟子入りしてご飯炊きに始まり、いろいろな問題に直面していきます。男性が多い社会の中で、それを乗り越えていくには相当の苦労を重ねますが、最後は立派な大工職人として成長します。

 弟子たちもイエスに従っていくため、相当の覚悟が求められました。今日の聖書のことばの中で「従う」は、ギリシア語で「アコルテオー」が使われ、「だれかの後についていく」とともに、「信従する」意味が込められています。もともと、この言葉はラビになるために弟子入りする表現も含み、弟子はラビから律法やその解釈の仕方を倣うため、修行に励みます。ラビの人格を目的として修行するのではなく、彼の教えを憶えるためです。こうして彼の教えを信じ、弟子自身もラビになり、やがて師から独立していきます。

 福音の中で一人の方がイエスに「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言います。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9・60)と。古今東西を問わず、これは厳しすぎると感じるでしょう。かつて「父を葬ること」は、父母への誉れの義務でした(トビト4・3~4、6・13~14、14・11~13)。神の十戒にも「あなたの父母を敬え」(出20・12)とあり、ユダヤ人にとって死者の埋葬は宗教的・社会的にもっとも大事な務めでした。まして肉親の父の葬儀を丁重に行うことは、父系社会ユダヤ教の中心にもなっています。

 人生において死者の埋葬も重要ですが、それ以上に緊急課題の宣教と見比べながら、イエスは従来の習慣を覆すかのように、弟子として必要な覚悟を指摘していきます。

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