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カトリック入門

【カトリック入門】第110回 永井隆【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

永井隆の著作には、『この子を残して』『長崎の鐘』『ロザリオの鎖』『如己堂随筆』など、多数ある。
永井隆は、1908年2月3日、松江市の田野病院で生まれる。
幼年時代を父が開業していた島根県飯石郡飯石村で過ごし、小学校をそこで終えた。優秀な成績で、飯石郡長賞を受賞した。
1920年4月、県立松江中学に入学し、五年A組級長となり、校旗旗長を命じられ、摂政の宮(後の昭和天皇)を迎えた。1925年にこの中学校を卒業。
その後、松江高等学校に入り、理科を専攻、1928年3月、この高校を卒業し、皇太子殿下下賜金賞を受けた。
1928年4月、長崎医大に入学。大学にバスケット部を創設し、上海などにも遠征した。
1932年3月、長崎医大を卒業したが、中耳炎のため専攻の内科を断念し、放射線医学を専攻した。引き続き長崎医大物理療法科に助手として籍をおき、研究を続けた。
1932年8月、徴兵検査を受け、甲種合格。翌年の2月、陸軍軍医候補生として広島歩兵第11連隊に入隊。
1933年5月、短期軍医として満州事変に従軍したが、この間、慰問袋に入っていた公教要理を読んだ。翌年の1934年に帰還して物理療法科に復職。この年の6月に浦上天主堂でカトリックの洗礼を受け、洗礼名は「パウロ」。8月にマリア森山緑と結婚した。
1935年2月、急性咽喉炎のため、療法としてたんぱく剤を注射。その結果、アナフィラ状態を起こし、肺水腫となり、一時危篤となった。後遺症として、ぜんそくが持病となる。
1937年2月、長崎医大講師。また予備役のまま陸軍軍医中尉となる。
1937年7月31日、日中事変のため広島歩兵11連隊に入隊。第五師団衛生隊に編入。衛生隊医長となる。8月6日、宇品(うじな)港から出征。中国大陸で72回の戦闘に従軍。
1940年、南シナから門司港に帰還し、連隊司令部に着任。2月26日に召集を解除された。
1940年4月、長崎医大助教授、物理学療法科部長に就任した。
1944年4月、医学博士の学位を取得。論文は、「胆石の微細構造」。
1945年6月、内科で診断を受け、慢性骨髄性白血病と診断される。白血球108,000(正常値7,000)、赤血球300万(正常値500万)。
1945年8月9日、原子爆弾が長崎市上空で炸裂。長崎医大付属病院本館二階の物理療法科部長室で被爆。右側頭動脈切断の重症。応急手当を受け、負傷者の救護にあたる。夕方、昏睡状態に陥った。
1946年1月、教授となった。
1946年7月、白血病が悪化し、浦上駅で倒れた。8月に『長崎の鐘』を発表。12月、自宅で療養と執筆生活に入る。
1948年1月、「亡びぬものを」を発表。この年の3月に、自宅の母屋から「如己堂」に移った。
3月に「ロザリオの鎖」を発表。
4月「この子を残して」を発表。
1949年1月、「長崎の鐘」が英語、ドイツ語、韓国語、ベルギー語などに翻訳された。
1949年12月、長崎市名誉市民の称号を贈られた。
1951年4月22日、「乙女峠」を発表。
1951年5月1日、午後9時50分逝去。享年43歳。
5月3日に教会葬。
5月14日、長崎市公葬。市民約2万人が参列。

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