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これってどんな種?

生活という種 四旬節第2主日(マタイ17・1〜9)

 「生活」という字は、「生」と「活」という漢字で成っています。どちらも「いき」と読みます。これは、正しいかどうかわからないのですが、「生」の方は、人生全体を表し、「活」の方は、その人生の中にある「節目」や「祝い」というようなものを表しているのではないでしょうか。例えば「誕生日」「卒入学」「成人式」「結婚式」などのようなもので、その人の人生において「活力」となるようなものです。

 そして、その「活力」は、私たちの目標であり、希望と言ってもいいでしょう。私たちは、いま【四旬節】を過ごしていますが、【復活】という【活】を迎えるための準備の期間と言ってもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が【変容】される場面です。きょうのみことばの箇所は、毎年8月6日に祝われる「主の変容の祝日」の時にも朗読されますが、四旬節第2主日でも朗読されます。それは、【復活】されたイエス様のお姿を示すという大切な箇所だからではないでしょうか。

 イエス様は、「長老、祭司長や律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目に復活」することを弟子たちに伝えます(マタイ16・21参照)。弟子たちにとって、このイエス様の「受難」の話は、理解できないばかりか受け入れることができないことだったことでしょう。特に、ペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ。お前は、わたしをつまずかせようとしている。お前は、神のことではなく、人間のことを考えている」(マタイ16・23)と言われたのですから、かなり落ち込んだことでしょう。

 みことばは、「6日の後、イエスはペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山にお登りになった」と始まっています。この「6日の後」というのは、イエス様が弟子たちに「受難と復活」の話をされた後の「6日の後」という意味です。この「6日間」弟子たちは、どのような思いで「受難と復活」を考えていたのでしょうか。彼らにとっては、メシアであるイエス様が酷い殺され方をされる【受難】の話が信じられず、さらに【復活】においては、もっと理解できなかったのではないでしょうか。

 イエス様は、そのような弟子たちのことを思って、3人の弟子たちだけを連れて【高い山】にお登りになられたのです。聖書の中で【山】は神聖な場所、神がおられる場所というように表されているようです。その山に登られた時、イエス様のお姿は、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白く光ります。ちなみに、マタイ福音書では、他の福音記者が衣の変化だけを記しているのに対して、「顔は太陽のように輝き」という表現が付け加えられています。マタイは、イエス様のお顔が太陽のように輝く姿を【メシア】の姿として表したのかもしれません。

 さらに、モーセとエリアが現れイエス様と語られます。ルカ福音書には、「イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期について語り合っていた」(ルカ7・31)とありますように、イエス様は弟子たちにご自分の【受難と復活そして昇天】について知らせようとなさったのではないでしょうか。

 ペトロは、彼らの会話中に口を挟み「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みなら、わたしはここに3つの仮の庵を造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリアのために」と言います。ペトロは、この【素晴らしい光景】を続かせたかったのではないでしょうか。弟子たちは、モーセとエリアという偉大な預言者が目の前に現れ、イエス様と語り合っている場面に遭遇し、感激と興奮で満たされていたことでしょう。

 しかし、ペトロがまだ言い終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆います。そして、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。彼に聞け」という声がします。【雲】というのは、おん父の現存を表しているようです。ですから、この言葉は、おん父が直接弟子たちに語られたもので、大切なメッセージと言ってもいいでしょう。おん父は、ペトロが素晴らしい【神体験】だけに固執しようとしていることに対して、もっと大切な【彼に聞け】ということを知らせようとされたのではないでしょうか。

 このことは、私たちの生活にも当てはまるかもしれません。私たちにとっても【神体験】は、常にあることではありませんが、もし、あったとしたらその素晴らしさをいつまでも留めて置きたい、大切にしたいと思うことでしょう。しかし、それらの体験は、私たちの努力ではなく、おん父からの【恵み】なのです。みことばには「彼らが目を上げてみると、イエスのほかには、誰も見当たらなかった」とありますように、素晴らしい【神体験】は、一時的なもので長く続かないものということではないでしょうか。

 おん父は、弟子たち(私たち)に対して、【彼に聞く】ことを伝えられます。私たちの信仰生活は、いつもイエス様の声を聞き従う歩みの延長ではないでしょうか。私たちは、人生の中で【活】だけに留まるのではなく、【生】の中でイエス様の声を【聞き】、歩んで行くことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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