書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

イエス様に気づくという種 復活節第3主日(ルカ24・13〜35)

 「百聞は一見にしかず」と言うことわざがあります。何度も本や人に聞いたりしても、一度見ること、体験することによってそのものを理解できるということです。例えば、料理のレシピだけでは、その料理の食感や味などは分からないもので、実際に見て、食べて味あわないとその料理を理解することができません。

 きょうのみことばは、「エマオへの途上で復活されたイエス様が弟子たちに現れる」場面です。みことばは「同じ日のこと、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れた、エマオという村に向かって歩いていきながら……」という言葉から始まっています。

 文頭に「同じ日のこと」とありますからイエス様が復活されたその日のことです。きょうの箇所の前は、マグダラのマリアとヨハナ、そしてヤコブの母マリアが、イエス様が葬られた墓に行って、輝く衣を着た2人の人から「その方はここにはおられない。復活された」と言われます。さらに、彼女たちは弟子たちにイエス様が復活されたことを伝えますが、彼らは、この話はたわごとのように思われたので、彼女たちを【信じませんでした】(ルカ24・5〜11参照)。

 今日のみことばはイエス様の復活を信じることができない弟子たちの二人が、エマオへ向かって歩いていたのです。みことばでは、「二人が話し、論じ合っていると」とあります。彼らは、イエス様の復活について【頭】で理解しようとしていたのです。

 そのような二人の所に、イエス様ご自身が近づかれ、彼らと一緒に歩き始められます。しかし、彼らの目は遮られていて、イエス様であることに気がつきませんでした。なぜ、彼らはイエス様に気づかなかったのでしょう。復活されたイエス様の風貌が変わっていたのでしょうか。マグダラのマリアは復活されたイエス様を見て「園の番人」だと思います(ヨハネ20・15参照)。多分、彼らの頭の中では、【復活】ということが理解できなかったのです。

 イエス様は、「歩きながら、語り合っているその話は何のことですか」と尋ねられます。イエス様は、いつも弟子たちのすぐ側にご自分から近づかれ、耳を傾けられておられます。もちろん、それは今の私たちに対しても同じようになさっておられます。私たちが落ち込んで迷っている時、嬉しいことを誰かに分かち合いたい時、祈れなくて苦しい時、自分の信仰の道に迷っている時など、どんな時にでもイエス様はいつも私たちの側におられ、耳を傾けられておられるのです。

 一緒に歩いておられるのがイエス様だと気づかない二人の弟子は「暗い顔をして」立ち止まります。そして、クレオパという弟子が「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか」と答えその一部始終を説明します。彼らにとってメシアだと思っていたイエス様が、十字架上で亡くなられたことは、まさに失望のどん底に落ちたのと同じだったのです。みことばはそれを【暗い顔をして】というように表しています。さらに、エルサレムでのイエス様の受難と死は、弟子たちだけではなくほとんどのユダヤ人が知っているほどの【ニュース】だったのでしょう。

 弟子たちは、自分たちの理解、解釈で【メシア像】を作り上げ、イエス様のことをまったく理解できなかったのです。イエス様は彼らの話を聞かれ、「『物分かりが悪く、預言者たちが語ったことのすべてを信じるには、心の鈍い者たち、メシアは……』聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、2人に説明されます」。イエス様は、弟子たちに対して優しく、彼らが理解できるように聖書全体からご自分について書かれた所を説明されたのでしょう。

 彼らはイエス様(この時点ではまだイエス様だとは気づいていません)の話をどのような気持ちで聞き入っていたのでしょうか。みことばは、「やがて、彼らは目指す村に近づいたが、……『一緒にお泊まりください』」と言ってイエス様を引き留めます。彼らにとってイエス様の話は、心地よかったし、自分たちが描いている【メシア像】との食い違いに気づき始めたのではないでしょうか。それで、もっとイエス様の話を聞きたくて、また、夕暮れということでこの方と一緒に食事をしたかったのでしょう。

 イエス様は、彼らとともに泊まるために中に入られ、食卓に着かれパンを取って、賛美をささげて、それを裂いて、2人に渡されます。すると2人の目が開かれ、イエス様だということに気づきましたが、その姿は消えてしまいます。2人はそこで自分たちがイエス様の聖書の説明を聞いた時のことを振り返り、「わたしたちの心の中で燃えていたではないか」と言います。彼らに取って、【裂いたパン】を食べたこと、【聖書の話】を聞いたことで復活されたイエス様に気づく体験をすることができたのです。

 イエス様は、物分かりが悪く、自分のエゴや思い込みに囚われている弱い私たちの側にご自分から来られ、聖体とみことばによって、おん父の方に導かれておられます。私たちは、日々の生活の中で私たちとともにおられるイエス様に気づき、周りの人に伝えていくことができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. イエス様に気づくという種 復活節第3主日(ルカ24・13〜35)

  2. 見ないで信じるという種 復活節第2主日(ヨハネ20・19〜31)

  3. もう一人の弟子という種 復活の主日(ヨハネ20・1〜9)

RANKING
DAILY
WEEKLY
MONTHLY
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP