私が年に何度かお邪魔するある家族があります。そこには、血縁者だけではなく、そうでない人も含めて十数人で共同生活をしながらお互いが助け合い、おん父への愛を共有しながら生活をしています。その家族は、裕福ではありませんが、とても豊かでそれぞれが働いた賃金を出し合い、生活を営んでいるのです。
さて、きょうのみことばは、ペトロがイエス様を「メシアです」という場面からイエス様の「受難の予告」、そして「イエス様に従うためには」ということを示される場面です。みことばは、「さて、イエスは弟子たちを連れて、フィリポ・カイサリア地方の村々へ出かけられたが」という節から始まっています。イエス様は、シリア・フェニキアから、デカポリスへ行かれ、ガリラヤの北部分に面したダルマヌタ地方へ行かれ、さらにフィリポ・カイサリア地方に行かれます。
イエス様は、このフィリポ・カイサリア地方に行く途中で弟子たちに、「人々はわたしを何者だと言っているか」と尋ねられます。イエス様の評判は、パレスチナ一帯に広まっていたようです。弟子たちは「洗礼者ヨハネだと言う者もあれば、エリアだと言う者もあり……」と答えます。きっと、人々はイエス様がただの人ではない、特別な力を神からいただいている、と思っていました。それで人々は、思い思いに自分たちが感じたままを口にしていたのでしょう。
イエス様は、弟子たちの答えを聞かれた後に「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。イエス様は、この質問の前に【それでは】と付けられます。この中には、イエス様が「あなたたちは、人々と違う何かを感じているのでしょう」という、期待を込められたお気持ちがあったのではないでしょうか。
私たちは、このみことばに接するとき「あなた方は」という言葉にご自分の名前を当てはめて見るとイエス様の時代ではなく、「今の、時代」にタイムスリップをしたような【現実感】を味わうことができるのではないでしょうか。イエス様は、今も私たち一人ひとりに「あなた方はわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになられているのです。このことは、「わたし」と「イエス様」との関係を振り返るためにも大切な言葉だと言えるでしょう。
ペトロは弟子たちを代表して「あなたはメシアです」と答えます。この同じ箇所をマタイ福音書では、「あなたは生ける神の子、メシアです」とあり、その後にイエス様が「あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは、人間ではなく、天におられるわたしの父である」(マタイ16・17)と付け加えられています。私たちの中では、ペトロの信仰告白とその後のイエス様の言葉がセットになっているように、思われていますが、マルコ福音書とルカ福音書ではイエス様のペトロへの言葉が省かれ、「厳しく戒められた」となっています。
イエス様は、ペトロをはじめ弟子たちがご自分のことを【メシア】と認識していることを踏まえられて、ご自分がどのような最期を迎えるかを【あからさま】に話されます。弟子たちは、イエス様の話がかなりショックだったのでしょう。それは、自分たちが勝手に描いていた【メシア像】と違っていたからです。私たちもそうですが、自分たちの都合がいいところだけが強く残り、大切な部分が欠落することがあるのですが、弟子たちは、【三日の後に復活する】という最も大切な言葉が欠落したのでした。
ペトロは、イエス様の話を聞いた後、「脇へお連れして、いさめはじめます」すると、イエス様は、ペトロに向かって「サタンよ、引き下がれ。あなたの思いは、神のものではなく、人間のものである」と叱ります。このサタンというのは、私たちが思う「悪魔」という意味ではなく、「おん父のみ旨を行うことを邪魔する者」という意味で、イエス様が受難を受けて【復活】して、人間の罪を贖うというおん父のみ旨を果たすことを【邪魔する者】ということのようです。
私たちは、イエス様が【メシア(キリスト)】であることを信じ、洗礼の恵みをいただきました。しかし、福音を伝える中で自分のことを優先したり、自分に都合がいいような意見を通したりと、いつの間にか、おん父のみ旨ではなく【自分】で福音を伝えてしまう傾きがあります。イエス様は、そのような傾きに対し、ペトロを通して【おん父のみ旨】だけを伝えることを示されておられるのです。
イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。……」と言われます。私たちは、イエス様に従うために洗礼の恵みをいただきました。私たちは、イエス様が十字架を担われたように私たちも同じ使命をいただいています。イエス様が言われる「自分を捨てる」「十字架を担う」ということは、私たちがイエス様のように「おん父のみ旨」を行うように私たちの心をおん父の方に向けることと言ってもいいでしょう。
私たちは、一人ひとりは弱くて貧しい者ですが、周りの兄弟、姉妹に支えられイエス様と共におん父の方に心を向けて歩むことができたらいいですね。