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これってどんな種?

ただ、信じるという種 三位一体の主日(ヨハネ3・16〜18)

 最近はあまり見かけないのですが、「金太郎飴」というものがあります。それは、どこをとっても金太郎の絵柄が出てくる飴です。それと同じように三位一体の神様は、いつもどこでも【愛】しかありません。それほど私たち一人ひとりを愛されておられるのです。おん父は、ご自分から離れて行こうとする、私たちをご自分の方に導くように、聖霊を送って私たちの背中を押してくださいます。それは、【愛の息吹】と言ってもいいでしょう。イエス様は、ご自分を裏切って逃げて行った弟子たち、いつも自分たちのことしか考えず、誰が弟子たちの中で一番偉いのかと話し合う弟子たち、そのような弟子たちに対してもいつも愛しておられます。その愛は、今もこれからも私たち一人ひとりの上にも注がれているのです。きょうの典礼である「三位一体の主日」を通して私たちが三位一体の神様から頂いている【愛】をあらためて感じてみるのもいいかもしれません。

 きょうのみことばは、おん父がどれほど私たちを愛されておられるかと言うことを、ファリサイ派の一人のニコデモに話される場面です。ヨハネ福音書の中で彼は、イエス様を弁護し(ヨハネ7・51参照)、イエス様の埋葬の時には没薬と沈香を混ぜ合わせたものを携えてきています(ヨハネ19・39参照)。このように、彼はファリサイ派の中では珍しくイエス様に対して好意を持っていたのです。イエス様は、彼が他のファリサイ派の人々と違う何かを持っていることを感じられたのではないでしょうか。

 きょうのみことばの前には、人々を救うために、イエス様が十字架にかけられるとニコデモに話されます。そして15節でイエス様は、「それは、信じるものがみな、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・15)、と言われています。そして、きょうのみことばに入るのです。イエス様は、「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。」と言われます。ヨハネ福音書の中で【世】というのは、イエス様を無視し、受け入れず、信じようともせず、自分たちのエゴを優先する人々を指しています。そのような【世】に対しておん父は、独り子であるイエス様をお与えなるほどを愛されたのです。

 パウロは手紙の中で「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、神がわたしたちに対するご自分の愛を示されているのです。」(ロマ5・8)と言っています。おん父は、罪人である私たちに溢れんばかりの愛をくださるお方なのです。また、出エジプト記では、「主、主とは、憐れみ深く、恵みに富み、怒るに遅く、慈しみとまことに溢れる神である。千代に慈しみを及ぼし、悪と背きと罪を赦す」(出エジプト記34・6)とあります。パウロの手紙も出エジプト記でもおん父が私たち一人ひとりをいかに愛されておられるかを示しています。

 イエス様は、「独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と言われます。おん父は、私たちがご自分といつも、いつまでも一緒にいることをお望みなのです。それは、私たちが「好きな人、愛している人と離れたくない、いつまでも一緒にいたい。少しでも長く一緒の時を過ごしたい。」と思うような気持ちと同じなのです。おん父は、先の「出エジプト記」の【溢れるばかりの愛】を私たちに下さっています。そればかりか、私たちと一緒に居たいと思われるために【永遠の命】をくださるのです。ただ、その条件が【独り子を信じる】ことなのです。

 イエス様は、「神が御子をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである」と言われます。イエス様は、再びおん父がご自分を「この世にお遣わしになった」と言われます。イエス様は、ご自分がなぜこの世に来たのかを言葉を変えて繰り返されます。おん父は、イエス様を通して、私たちがどんなに罪を犯したとしても、【裁く】のではなく赦してくださるお方なのです。私たちの周りは、何か間違いを犯した人に対して裁いてしまいます。逆に間違いを犯した人は、周りの人に対して後ろめたい、惨めな気持ちでいっぱいになります。おん父は、そのような人に対して【赦し】というお恵みをくださるお方なのです。

 さらに、イエス様は「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じなかったからである」と言われます。私たちは、もうすでに赦されているのです。私たちは、イエス様が「もう大丈夫」と言われているのですが、私たちの方が「こんな罪を犯したのに赦されるはずがない。おん父の愛をいただく値打ちがない」と失望することがあります。イエス様が言われている【裁かれている】というのは、そのように自分を裁いている人のことなのです。私たちは、自分が愛しているにも関わらずその愛を否定され、拒否されるほど悲しいことはありません。それは、おん父も同じなのです。

 私たちは、イエス様を【信じる】ことで、三位一体の神様から【永遠の命】を頂くというお恵みを頂いています。このことに感謝と信頼、そして希望のうちに日々を過ごすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. ただ、信じるという種 三位一体の主日(ヨハネ3・16〜18)

  2. 聖霊とともにという種 聖霊降臨の祭日(ヨハネ20・19〜23)

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