書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

霊的なダイエットという種 年間第21主日(ルカ13・22〜30)

 先日健康診断に行って来ました。毎年のことですけど「体重」と「腹囲」を測られると、「ああ、また、増えてしまった」と思ってしまうのです。「ダイエット」という言葉を聞くと、食事制限をしたり、運動をしたりすることと思ってしまいます。しかし、本来の意味は、「生活習慣」「生き方」とか「生きる、暮らす、人生を歩む」ということを指すようです。私たちは、日々の生活を振り返りながら、霊的な「ダイエット」も気にしてみることも大切なのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が「狭い門から入りなさい」と教えられる場面です。イエス様と弟子たちは、町々や村々を通ってエルサレムへの旅を続けています。このイエス様がエルサレムへ行かれる目的は、「十字架への道」なのです。そのため、イエス様は、「受難と十字架上での死」の前に、弟子たちや自分の後について来た人たちに対して、「天の国」に入るため、「おん父の方へ向かう」ために喩えを用いながら教えられています。

 きょうのみことばの中では、その中のある人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」とイエス様に質問をします。彼は、イエス様の譬え話や教えを聴きながら真剣に「救われたい」と思ったのではないでしょうか。福音書の中には、「永遠の命を受ける」ためにどうすればいいかという質問をイエス様にする場面があります。彼を含めて当時の人たちは、【救われる】ということが一生の課題であり、生き方だったのではないでしょうか。

 イエス様は、その人の質問に対して彼だけにではなくご自分について来た人々に対しても話されます。それは、彼の質問が人々のために必要だったからです。このことは、今の私たちや教会に対しても言えるのではないでしょうか。

 イエス様は、「狭い門から入るように努めなさい。あなた方に言っておく。多くの人は、入ろうとしても入れないからである」と言われます。イエス様が言われる【狭い門】とはどういうことなのでしょう。「狭い門(狭き門)」の意味を調べますと「〔聖書にある言葉〕修行や信仰などの方法に厳しい関門が有って、これを越えることが難しいたとえ。」「競争相手が多くて、入学や就職などが難しいこと(所)」(『新明解国語辞典』)とあります。私たちの耳には、後者の方が親しく響くかもしれませんが、イエス様が言われている【狭い門】は、最初の意味に近いかもしれません。

 イエス様が言われる「狭い門から入るように努めなさい」の中で【努める】というのは、「努力する」「鍛錬する」という意味のようです。ですから、何かしら自分の生活をおん父のみ旨にかなうように【努力】することが必要になって来るのです。そのためヒントは、イエス様が変容されるときにおん父が言われた「これはわたしの子、選ばれた者。彼に聞け」(ルカ9・35)ではないでしょうか。イエス様の話、教えを受け入れ、それを行っていくことが【狭い門】から入るように【努める】ことなのかもしれません。

 イエス様は、「多くの人は、入ろうとしても入れないからである」と言われています。イエス様に質問をした人のように多くの人も「救われたい」と思っていたはずです。しかし、彼らの中には、プライドやエゴなど捨てきれず、イエス様の話や教えは頭ではわかっても生活で実行するには難しいと諦めていた人や、自分は律法を守っているから大丈夫だ、と思っている人もいたのでしょう。イエス様は、そのような人の考えをご存知だったので「多くの人は、入ろうとしても入れないからである」と言われたのです。

 イエス様は、「家の主人が立って門を閉めた後で、外に立って、『ご主人さま、開けてください』と言って門をたたいても、主人は、『お前たちが何者か知らない』と答えるであろう。……『悪を行う者たち、一人残らず、わたしのもとから去れ』……自分だけが外に投げ出されることを知って、嘆き、歯ぎしりする。」と譬え話をされます。イエス様は、ここで「お前たちが何者か知らない」という言葉を2回使われています。彼らは、一緒に食事をしたり、大通りで教えを聞いたりしていたので、当然自分たちのことを知っているはずだと思っていたのです。そこに、彼らの慢心さがあったのではないでしょうか。

 イエス様は、「本当に救われたいのでしたら、主人がいつ門を閉めてもいいように、日頃から『狭い門から入るように努める』ことが大切ですよ」と言われておられるのではないでしょうか。イエス様は、「後の者で先になる者もあり、先の者で後になる者もある」と言われます。イエス様は、ユダヤ人たちが「自分たちは、『救われる』」と思っていたことに対して、「異邦人」たちの方が先に【救われる】と言われます。

 私たちは、【狭い門】から入ることができるように、まずエゴや慢心さを削ぎ落として、謙虚な心を忘れずに日々の生活の中で【霊的なダイエット】をすることができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 霊的なダイエットという種 年間第21主日(ルカ13・22〜30)

  2. 目を覚まして待つという種 年間第19主日(ルカ12・32〜48)

  3. 宝を蓄えるという種 年間第18主日(ルカ12・13〜21)

RELATED

PAGE TOP