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信心のすすめ

聖ヨゼフの月──信心のすすめ(16)

 聖ヨゼフの品位は、神の母マリアの次に偉大なものです。実に、聖ヨゼフは、聖家族の頭でした。それゆえ、彼は、神のおん子に対する天父の権威と愛情に参与していたのです。また彼は、イエス・キリストに自分の意志を伝達するために、その英知に参与していたのです。

 彼は、聖マリアの夫でありました。マリアの夫、神の母の夫でした。それゆえ、マリアの品位に一番近いかたでありました。「マリアとヨゼフの間には、夫婦のぎずながあり、そのため、彼が彼らの崇高な品位に参与していたということは疑いないことである」(レオ13世)。

 そのことから、聖ヨゼフにはすぐれた聖性(聖マリアをのぞいた)他の聖人たちの聖性よりすぐれたものがあるということになります。実に、聖トマスとシエナの聖ベルナルディーノは、主は各人に、その召命と委託した職務に比例した、しかもふさわしい恩寵を伝えるのを常とする、と言っています。

 たとえ、福音史家たちが、聖ヨゼフについて多くのことを言わないにしても、偉大な信仰の人、盲目的従順、深い謙遜、完全な童貞、神に対する燃えるような愛の人として示されます。教会史上においても、数世紀にわたり、聖ヨゼフはほとんど隠れていました。しかし、聖ベルナルド、聖テレジア、サレジオの聖フランシスコは彼を紹介し、その信心を広めました。1729年教皇ベネディクトゥス十三世は、連祷の中に、聖ヨゼフの名まえをつけ加え、1621年教皇グレゴリウス十五世は、全教会に聖ヨゼフの祝日を祝うことを命じ、ピオ九世は、全教会の保護者と定めました。

 やがてキリスト教の中に、彼はあらゆる必要と悲惨を心にかけ、また、イエス・キリストの肢体として教会の信者を愛し、配慮するという全体的なすすめによって、聖ヨゼフの保護に対する大きな信頼、彼の生涯と徳に関する関心、かくも愛すべき、単純で、しかも沈黙にみちた聖人への熱烈な愛と信心が全般的に芽生えてきました。聖ヨゼフに教会、祭壇、修道会がささげられましたし、多くの信心業が行なわれはじめました。また、無数の恩恵と不思議が、聖ヨゼフによって得られたのです。聖テレジアは次のように言ったものです。「聖ヨゼフにねがった恵みは、何でもかなえられました」と。

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 社会のために、もっとも崇高で、有益な労働は使徒職です。「平和の福音、善の福音をもたらす人の足は何と美しいことだろう」(聖パウロ)師イエスの公的職務の偉大な労働は、「人々が生命をしかもいと豊かなる生命を与えるために来た」ということであります。イエスは、彼らの協力を求められたのです。すなわち、マリアとヨゼフは、身分相応な条件の中で、救いの第一でしかも主要な協力者でありました。彼らは、人類のために、聖師、永遠の司祭、あがないのためのホスチアを準備したのです。

 使徒とは、協力者であります。すなわち、キリストとともに、キリストにおいて、キリストによって、人々に信仰と聖性と恩寵の偉大な善を与えながら、人々の救いのために働くのです。

 使徒職は、祈り、苦しみ、ことば、わざ、マス・コミ、秘跡の授与、教育、宣教など、をもって実践することができます。協力は常に行なわれます。聖ヨゼフはベトレヘム、エジプト、ナザレ、神殿での奉献、見失われたイエスをさがし、神殿にて見い出すことにおいて、その使命を受けとりましたが……彼はもっとも忠実な協力者です。私たちの協力者は、その使命がいかほど美しく、また偉大であるかを感じるのです。そして、いつの日か、偉大なむくいを得るのを見るでしょう。

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 今日、多くの人々の中には、部分的に、単純な観想の生活に逃避する傾向があります。「自分に注意せよ」ということを実現すること、世俗からのがれること! それゆえ、孤独の生活に、閉じこもるといった傾向があります。

 他の人々の中には、社会の多くの必要を考え、「行きて、教えをのべよ」ということを実現するために、使徒的活動に向かう傾向があります。それゆえ、活動生活、自分をつくしさらにつくすために。

 その傾向はそれぞれ、神のまねきに従うかぎり、良いことであります。しかし、霊魂にとって幻惑の危険もないではありません。たとえば、エゴイスィックな方法で、また、たぶん怠惰のために、犠牲を恐れ、悪に対するたたかいを恐れるため、すなわち、戦いからにげてしまう兵士たちのように、世俗から逃避する危険があるのです。またもしくは、内的生活、自己の聖化という一番大切な配慮をすることなく、活動に没頭すること、使徒職の主要な手段である祈りを忘れる危険があるのです。

 観想生活を活動に合わせることは、もっとも完全な生活です。熱し、照らすこと! 二種類の報い、すなわち、自己の聖化と神の栄光のための熱意。「このことをなしながら、あなたは自分を救い、またあなたに聞く人々を救う」(Hoc enim faciens,et teipsum salvum facies et eosgui te audiunt)のです。

 私たちは聖ヨゼフに、沈黙、イエスとマリアとの親密さ、毎日の職務の遂行、個人的な徳と家庭的な徳の実践において、自分自身の聖化と内的生活を求めましょう。次に、世を救うための使徒職の精神、イエス・キリストと教会への協力を求めましょう。私たちは、恩寵なくしては枯れ木を植える人がなすようなことをなすだけです。聖パウロは、その愛の賛歌(Ⅰコリント3章)の中で、次のように言っています。「たとい私が天使と人間のことばを話しても、愛を持たなければ鳴る青銅と響きわたるどらにひとしい。たとい私が予言のたまものを持ち、すべての奥義と学問に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛を持たなければ無にひとしい。たとい私が持っているすべてのものをほどこし、この体を焼かれるために与えても、愛をもたなければ益することがない」(1-3)

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 教皇レオ十三世は、聖ヨゼフを労働者の模範としてたてました。聖ヨゼフは職人であり、労働において、イエスの師でありました。マリアはご自分でも働き、すべての造り主である託身された神のおん子に、机のそばにつきそわれ、その浄配が疲れにあえぎながら汗を流しているのをごらんになっている場面を思うとき、感嘆すべきものがあります。

 労働がたとえ肉体的精神的、知的もしくは使徒的なものであろうとも、永遠の神である、純粋能動因に近づくものです。労働は、創造者を模倣することによって、労働の原因である神の品位を人間に与えるのです。「その地を守り、たがやすために」地上の楽園におかれた人間は、つぐないと生活の手段として労苦を課せられました。働かない人は、自分を高めるために配慮することもなく、また食事する権利ももたず、特典を受けた社会的地位にある人は、労働を免除されているのではありません。

 一方では、労働、他方においては、労働における忍耐が必要であり、一方では適度に自分の生活条件をよりよくするために向い、他方では、労苦の体験をしのばなければなりません。また一方では理解し、他方では理解されることが必要です。一方には正義があり、他方には愛徳が必要です。一方には失敗があり、他方には慰めがあります。一方では正しいことを要求し、他方では余分のものを与えなければなりません。一方には手仕事があり、他方には財産とその実りのために、労苦が必要です。

 教皇レオ十三世とその後継者たちは、社会の大きな悪と社会階級間の権利と相互尊重、ならびに福音の精神における正しい解決方法があることを世界に訴えました。

 聖ヨゼフにおいて、労働は高められ、彼には思考と行動の完全な均衡があります。彼には忍耐、活動、必要事のための愛徳があります。「この人は大工ではないのか、彼は大工の子ではないのか」。諸教皇の教えとキリスト教民主当に関する健全な概念のみが、良薬となり、すべての人に、社会の平和と未来の善の遂行のための正しい道を教えるのです。イエスとヨゼフは理想的な労働者です。

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 聖ヨゼフのイエスとの親密な生活は、彼にとって恩寵と徳、善となぐさめのたえざる泉でありました。洞窟のうまぶねに敷かれたわずかなわらの上に、最悪の貧しさのうちに、イエスは誕生された時に受けた大きな苦しみがありました。しかしその反面、天使たちの歌声を聞き、天上の子どもの前にひざまずき、ひれ伏す牧者たちの礼拝を見、世界のために新しい愛のうちに、その心のすべてを開けられるのを見たときの喜びがありました。エジプトにのがれながら、生まれたメシヤに対するヘロデ王の憎しみを考え、異国の地におけるおん子とマリアの不憫さをながめながら受けた大きな苦しみがありました。しかしその反面、深く親しく交わり、彼らとともに苦しむという大きななぐさめを得たのです。パレスチナへの帰還、博士たちの来訪、神殿への奉献、ナザレにおける私生活、見失われ神殿で見い出されたときなどの苦しみと喜びがありました。

 ヨゼフは常に学び、模倣し、自分自身を聖化していたのです。イエスとの一致の生活は、あらゆるたましい、最も聖体的なたましいの報いよりは、はるかに高く、豊かなものでありました。

 神との私たちの一致は、聖なる黙想、良心の糾明、告解、秘跡にこもるキリストとの交わりにおいて完成されます。ミサ聖祭、聖体拝領、すなわち「日々私はあなたがたとともにいる」という私たちの間におけるイエスの実在を、有効に用いることを知らない人々がいます。一方、恩寵となぐさめ、永遠の生命の報いに、日ごとに成長する人々がいます。

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 マリアに対する信心は、救いのしるしであり、また一方では恩寵の尽きることのない泉でもあります。

 摂理の崇高な計画と天使のまねきによって聖ヨゼフの生活は、マリアの生活に自分の生活を合わせました。彼はまことの配偶者であり、童貞とそのほまれとの守護者でありました。彼は養育者であり、苦しみとなぐさめの伴侶であり、謙遜で信頼のおける奉仕者、忠実な模倣者、イエスの幼年期と少年期における支え手でありました。マリアに対するヨゼフの敬信は、あらゆる聖人たちのそれにまさるものでありました。今や天においては、他のすべてにまさって、その栄光と権力に参与しているのです。もっともすぐれた崇敬、もしくは原崇敬を受けているのです。

 神のみ旨と、教会の教えに従い、聖ヨゼフの信心の精神において、マリアを知り、模倣し、愛し、祈り、広めなければなりません。

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 教会のメンバーの間で、困難と極度の必要性の中にあるのは、死にのぞめる人たちであります。悪魔は霊魂に憎しみを持ち、彼らをほろぼそすために最大の努力をするのですが、それはまさに死のきわにおいてであります。高慢もくしは失望、怠惰もしくは悪意、突然の死もしくは長い闘病の生活、極度の困難もしくは悪の重さにまどわされてしまいます。それらはすべて、イエスと永遠のほろびのための人間の敵である悪魔によって利用され得ます。

 確かな死のためには、良い生活、通常の恩寵の状態、私たちに委託された使命を完遂していること、信仰、希望、愛の心構え、罪の痛悔、できるかぎり間に合うように、告解と病者の塗油、最後の聖体拝領を受けることなどが必要です。

 これら一つ一つを聖ヨゼフにお願いしてください。聖ヨゼフの一生は非常に聖なる一生であり、彼は自分に与えられたあらゆる神のご計画とみ旨とを遂行しましたし、その死に際しては、イエスとマリアとにつきそわれたのです。

 天におけるすべての聖人は、彼自身がこの地上で善を行なったことを獲得させるために力ある者です。

 霊魂の委託のあたり教会は、私たちに次の祈りを教えてくれます。「死にのぞめる人々の保護者聖ヨゼフよ、おん身に向かい願い奉る。おん身は死に際してイエスとマリアにつきそわれたもう。この二つの偉大なる愛ゆえに、最後のたたかいにあるこの病める者をおん身にぬだね、悪魔と地獄のわなより彼を救い給わんことをひとえに願い奉る。そはおん身のご保護により、永遠の喜びに達するを得んたるなり」(典礼書より)と。

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 聖ヨゼフは全教会の保護者です。すなわちキリスト者の各種の人々だけでなく、すべての人の保護者です。聖職者とか修道者の保護者であるばかりでなく、また若者や家族の長たちだけでなく、またさらに、知者たちに知識を、童貞者に純潔を獲得するだけではありません。病者に回復を、死にのぞめる人を保護するだけではありません。純潔、信仰、謙遜、労働、忍耐、各人のための正義、つまり「ヨゼフは義人」の模範であります。

 聖ヨゼフはすべての人の保護者です。

 聖ヨゼフはあらゆる恩寵の取り次ぎ手です。

 聖ヨゼフはあらゆる徳の模範です。

 それゆえ教皇レオ十三世がつくった祈りにおいては、次のように言われました。「聖家族の保護者聖ヨゼフよ、イエス・キリストの選ばれたる子孫を守りたまえ。いつくしみ深い父よ、われらのために、すべてのあやまりと腐敗との伝染を防ぎたまえ。いと強き保護者よ、われらが暗の権威と戦うをあわれみて、天よりたすけをたれたまえ。また昔、幼きイエスを生命の危険より救いしごとく、今も公教会を守りて敵のわなと、すべての困難とをまぬがれしめたまえ。かつ常にわれらをことごとく保護したまえ」と。

 「イエス・キリストは教会を愛し、教会のために御自 分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェゾ5,25-27 )

 キリスト者は、同じようにきす、すなわち、教会をつくっている人々の霊魂を愛します。そしてすべての人のために、聖ヨゼフの取り次ぎを願いながら祈るのです。おん父が聖ヨゼフに生まれたての教会なるナザレの家族を委託されたように、教皇もまた、福音的な種が巨大な木になったように、今や広く発展した教会を聖ヨゼフに委託されたのです。

 真のパウロ会会員は、この愛のうちに、使徒パウロの模範に従って歩むのです。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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