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週日の福音解説〜水曜日編〜

実に現れる真実──見かけと本性の裁き(年間第12水曜日)

マタイによる福音書7章15–20節

15「偽預言者に警戒しなさい。彼らは羊の衣をまとってあなた方の所に来るが、その正体は強欲な狼である。 16 あなた方はその結ぶ実によって彼らを見分けることができる。 茨からぶどうを、薊からいちじくを取ることができるだろうか。 17 すべて善い木は善い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18 善い木は悪い実を結ぶことができず、悪い木は善い実を結ぶことができない。 19 善い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ入れられる。 20 このように、あなた方はその実によって彼らを見分けることができる」。

分析

 マタイによる福音書7章15–20節は、イエスの「山上の説教」の締めくくりに近い部分であり、弟子たちと教会共同体が直面するであろう内的脅威に対して警鐘を鳴らすものです。ここで警戒すべき相手は、「偽預言者」と呼ばれる人々。彼らは単に誤った教えを語る者にとどまらず、“見せかけの義”を装って共同体の中に入り込み、破壊的な影響を及ぼす存在として描かれます。
 15節には、非常に強いイメージが使われています――「羊の衣をまとって」「強欲な狼」。これは単なる比喩ではなく、聖書全体の中でもよく知られた「偽装された敵」のイメージです。羊は無垢さ・従順・共同体の一員であることを象徴しますが、狼は分裂、捕食、破壊をもたらす外敵の象徴です。すなわち、問題の本質は外部の攻撃ではなく、内部からの破壊にあるのです。
 しかしイエスは、見かけによってではなく「結ぶ実」で見分けるようにと命じます(16節)。ここでの「実」は、その人の行い・態度・共同体にもたらす影響すべてを含む総合的な人格の結果を指します。信仰は言葉や肩書では判断できない、という厳粛な原則がここに示されています。
 「茨からぶどうを、薊からいちじくを取ることができるか?」という問いかけは、非常に論理的な構造を持っています。見かけが似ていても、本質は異なる。そしてその本質は、最終的に「実」として必ず現れるというのが、17〜18節の主張です。善い木からは善い実しか、悪い木からは悪い実しか生まれない。この直線的な対応関係は、現代人にとってはやや過激に思えるかもしれませんが、イエスの言葉はあくまで神の目から見た霊的真実を語っており、あいまいさを許しません。
19節では、「善い実を結ばない木」は火に投げ込まれると語られます。これは預言者的な裁きのイメージであり、旧約聖書における「結ばないぶどうの木」の比喩(例:イザヤ5章)を想起させます。裁きは単に“悪”への罰ではなく、“実を結ばない者”への神の厳格な審判として表現されます。実を結ぶことが救いの基準となっているのです。
 20節の「このように、あなた方はその実によって彼らを見分けることができる」は、このパラグラフの要約であり、見分けの指標を明確に示す締めの言葉です。霊的識別は共同体にとって不可欠であり、外見や言葉ではなく、結果(実)を通して判断せよという、極めて現実的でかつ鋭い教えです。

神学的ポイント

 •霊的識別の基準は「実」である
 信仰や教えの正当性は、見かけや美しい言葉ではなく、その人がどのような「実」を結んでいるかにおいて判断されます。これは行動主義ではなく、本質の証明としての実践です。

 •偽預言者は共同体内に現れる
 外からの迫害以上に危険なのは、内側から浸透し、偽りをもって人々を惑わす者の存在。イエスの警告は、教会の霊的衛生と一致に対する深い配慮から出ています。

 •本質は時間とともに露呈する
 「実を結ぶ」というプロセスは、時間を必要とします。つまり、真の信仰と偽りの信仰は、急には判別できないですが、持続的な実りによって最終的に明らかになります。

 •善と悪の不可逆性の宣言
 ここでの善い木/悪い木の構図は、神の視点から見た絶対的な霊的アイデンティティを反映しています。これは、悔い改めと回心を否定するものではなく、最終的に結ばれる「実」がその本質を証明するということです。

 •裁きは実を結ばないことに対しても行われる
 神の審判は、悪行に対してだけでなく、良い実を結ばない無為の信仰に対しても厳しく行われます。この点において、信仰は受動的な状態ではなく、能動的に神の御心に応答する姿勢を要求される。


講話

 今日のイエスの言葉は、私たちにとって耳の痛いものかもしれません。「見かけではなく、実を見よ」。それは、私たち自身が問われる言葉でもあります。
 イエスは言います。「偽預言者に警戒しなさい」。偽預言者とは、単に嘘を語る者ではありません。本当の問題は、「善そうに見える」けれども、そこにいのちを育む実りがないということです。羊の皮をかぶった狼――見かけは無害でも、内には分裂と欲望がうごめいている。
 では、どうすれば私たちはそれを見分けられるのでしょうか?
 答えは明快です――「実を見なさい」。その人が、言葉で何を語るかではなく、その言葉がどんな実をもたらしているかを見よ、と。愛を生んでいるか? 平和をもたらしているか? 傷ついた人を癒やしているか?
 この基準は、私たち自身にも突きつけられています。私たちは、自分が「善い実」を結んでいると言えるでしょうか?
 毎日の祈り、言葉、行動の中で、神のいのちが他者に向かって広がっているでしょうか?
 イエスの警告は、同時に招きでもあります。悪い実を結ばないためには、まず「善い木」とならねばなりません。善い木とは、神の愛と真理に根差した者のこと。つまり、信仰が根を下ろしている先が問われているのです。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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